昔夢会筆記

   御参内夜を徹せし事

 慶応三年十月十五日御参内ありて、政権奉還の勅許を蒙らせられしが、御退出は翌十六日の暁七つ時に及びたり。斯かる徹夜の御参内は、何か重大なる議事にてもあらせられしか、承りたく候。
そは当時の習慣をだに詳にせば、不審の起らずとも済むことなり。当時はいつも正午に参内すべしとの事なれば、予等は正しく其刻限に参内すれども、摂政○二条斉敬。などは薄暮に至らざれば参内せられざるをもて、主上に拝謁するは九時か十時の頃となり、十二時頃に及ぶことも珍しからず、其後彼是と御用もあれば、暁七つくらゐに退出するは常の事なり。十五日参内の時も同じく其例にして、自然の習慣上、退出が遅くなりたるに過ぎず、別に込み入りたる事情ありての事にはあらず。
退出を触れ出したる時は、供廻の者は皆股立を取り、蝋燭に火を点じて、主人の出づるを待つことなるが、退出を触れ出して後に又用談などあること常なれば、一本の蝋燭尽きて、二本目の頃に漸く退出といふが普通なり。又二本目も点じ尽して夜明けて退出といふ時もあり。斯かる次第故、摂政の御寝も大方は暁近き頃となり、随つて御目覚は十一時頃なりしが如し。今より考ふれば、時刻はあやしきほど不規則なり。予は折々摂政に、一日だけ議事を差繰らば、其翌日よりは時刻を正しくすることを得べしと勧めまゐらせしかども、遂に一度も行はれざりき。
    宮中の灯火の事
 宮中にては灯火は何を用ゐ候や。
各室とも二挺蝋燭を用ゐたり、庭燎は普通には用ゐず。
    宮中に於ける御居間の事
 宮中にての公の御居間は何処に候や。
一橋の時は諸大夫の間、将軍になりて後は麝香の間なり。関白も同じ麝香の間なれど、当時は別に其間ありたり。
    政権御奉還後の御処置の事
 政権御奉還の後も尚朝廷の御為国家の御為に一層の御尽力あらせらるべき思召なりし由は、予ても承り候ひしが、王政復古の基礎を立てらるべきにつきては如何なる御成案あらせられしか伺ひたく候。
 予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとて如何にして王政復古の実を挙ぐべきかといふことは成案なかりき。如何となれば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とても同様なり、さりとて諸藩士にては又治まるべしとも思はれず、これ予が苦心のある所なりしが、要するに、朝幕ともに有力者は下にありて上になければ、其下にある有力者の説によりて、百事公論に決せば可ならんとは思ひしかど、其方法に至りては、未だ何等の定見なかりしなり。松平容堂の建白出づるに及び、其中に上院・下院の制を設くべしとあるを見て是は如何にも良き考なり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行はゞ、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思ひ、此に勇気と自信とを得て、遂に之を断行するに至りたり。又其頃左右の者に向ひて、日本も行末は西洋の如く郡県となるべしと語りしことありしが、是とて実は漠然たる考にて、其順序・方法など夢にも思ひ浮ばず、且此時直に施行せんことは到底出来ぬことなりと思ひ居たれば、唯将来の見込を述べたるまでなりき。
 按ずるに、大政奉還の語、公はいつも政権返上と仰せらる、当時の常套語と知らる。

    政権御奉還後旧幕府にて外交事務を取扱ひし事

 政権御奉還の後、殊に十二月九日の大変革の後にても、尚旧幕府にて外交の事を取扱はれしは、如何なる事情に候や。
そは其頃各国公使より、今後外国事務はいづれにて取扱ふやと、やかましく申し出でたるが、本来ならば朝廷にて扱はせらるべきはずなれども、当時朝廷にては未だ何等の御準備もなく、且は無経験の事とて出来難きは明なる故、打ち明けて語り難き事情なきにあらず、其権朝廷にありといはゞ、彼等は直に朝廷に向ひて談判を開くことゝなるべく、さありては徒に朝廷を困難の地に置き奉るのみにて、中々はかゆくべしとも思はれざりしより、一時の権宜として、旧に依り徳川家にて取扱ふべしとて、彼等を抑へ置く必要ありしと、今一つは二条摂政より内々にて、唯今朝廷にて外国人などを引見せんは行はるべきことにあらず、気の毒ながら従前の如く応接せられたしとの依頼ありしにより、さらばとて御請して、暫く其事に携はりたるなり。

    政権御奉還後在京の兵を撤せんとし給ひし事

 慶応三年十二月十一日、即ち二条城御引上の前日、板倉伊賀守は書を関東の同列に寄せて、兵士・及軍艦を至急差廻すべしと促し居り候。是は台命に出でたるものに候や、又は伊賀守一己の取計に候や
政権返上の後は、予はもはや一己の大名なれば、従来の如く多数の兵を率ゐる必要なし、供廻などもいたく減少し、左右の警固に必要なる人数だけ残し置きて他は皆帰府せしめ、尚会桑二藩をも国に就かしめんと考へて、之を板倉伊賀守に語りしに、伊賀守いたく反対し、「二藩は万一の事ある時有力なる後楯なれば、帰国せしめんこと然るべからず、又帰国せよと命じたりとて、承服せざるは明なり、其他の兵士も同様なり」と称して従はざれば、已むことを得ず其儘になりたるなり。されば伊賀守が軍艦・兵士の西上を促せしことありとせば、そは全く伊賀守一己の考に出でたるなり、誠に残念なることをしてけり。

   大坂城御引上の時の事

 明治元年正月六日、会藩士神保修理長輝。拝謁して順逆を説き、開戦の不可なるを諫め奉りしこと候や。
 御東帰の事は、板倉伊賀守・永井玄蕃頭の二人に御相談の結果に候や。
 天保山沖にて米国軍艦へ御搭乗遊ばされし時の模様は如何に候ひしや。
 開陽艦へ御転乗遊ばされし時、英国軍艦一隻入港し、既に碇泊せる一艦と共に、御乗艦に対して示威運動を試みたるにより、公は開陽艦の副長沢太郎左衛門貞説。に命じ操練をなさしめて、之に対抗せしめられしことありしやにも申し伝へ候、さることも候ひしや。
 大坂城御引上の際、同城の留守は誰に御命じ遊ばされ候や。
神保修理には逢ひたり、其言ふ所は「事此に至りては、もはやせんかたなし、速に御東帰ありて、徐に善後の計を運らさるべし」となり。永井玄蕃頭此議を然りとす。予は初下坂の時、たとひ刺し殺さるゝまでも、会桑二藩に諭して各其国に帰らしめ、然る後再び上京して「今は一己の平大名に過ぎざれば、願はくは前々通り御召し使ひ下さるべし、朝廷の御為には粉骨砕身仕るべし」と懇願せばよかりしに、事此に出でず、会桑二藩をも諭し得ずして、遂に「如何やうとも勝手にせよ」といひ放ちしが一期の失策なり。斯く後悔したる際に神保の建言を聴きたれば、寧ろ其説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず、試に諸有司・諸隊長などを大広間に召し集めて、「此上は如何にすべき」と尋ねたるに、孰も血気に逸れる輩のみなれば、皆異口同音に、「少しも早く御出馬遊ばさるべし」といふのみなれば、よきほどにあしらひ置き、板倉・永井を別室に招きて、恭順の真意は漏らさず、唯東帰の事のみを告げたるに、両人は「ともかくも一旦御東帰の方然るべからん」といへるにより、愈それと決心し、再び大広間に出でゝ形勢を観るに、依然として予が出馬を迫ること頻なりしかば、予は「さらば是より打ち立つべし、皆々其用意すべし」と命じたるに、一同踊躍して持場持場に退きたり。予は其隙に伊賀・肥後・越中松平定敬。等纔に四五人を随へて、潜に大坂城の後門より脱け出でたり。城門にては衛兵の咎むることもやといたく気遣ひたれど、御小姓なりと詐りたるに欺かれて、別に恠しみもせざりしは誠に僥倖なりき。さて天保山に到りて船を尋ねしに嚮に開陽丸此処に碇泊せしかど、今は薩艦を追跡して在らずといふ。然らば繋泊せる米艦に依頼せんと思ひたれど、余りに卒爾なれば、先づ仏国公使に紹介せしむるこそよけれとて、使山口駿河守(直毅、泉処と号す)なりしと覚ゆれど確ならず。をロセスの許に遣はしたるに、ロセスは快く承諾して紹介状を与へたり。一行はそを携へて米艦に赴きたるに、米艦にては仏国公使の紹介ありし為にや極めて優遇し、酒肴を出してもてなしけるが、とかくする中開陽丸帰港したるをもて、更に同艦に転乗したり。此時英国軍艦来りて、頻に開陽丸の周囲を乗り廻し、艦内の状を偵察するものの如し。沢太郎左衛門之を見て、「英艦は高貴の人の在すらしきを疑ひて、之を探るに相違なし、暫く隠れ居給ふべし」と申すにより、暫 く船室に閉ぢ籠り居りしに、英艦は程なく舵を転じて、いづれにか走り行きたり。それより開陽丸にて江戸に帰りたるが、予は船中にても紀州沖辺にての事と覚ゆ。伊賀守に向ひて、「嚮に会桑二藩並に旗下など如何に騒ぎ立つるとも、泰然として動かず、一歩も闕下を去るべからざりしを、大勢に抗するを得ずして、汝等の為さんと欲する所を為せと放任して遂に鳥羽・伏見の変を惹き起したるは、くれぐれも失策なれば、江戸に帰著の上は、飽くまで恭順謹慎して朝裁を待つの決心なれば、汝等も其心得にてあるべし」と語り聞かせたるに、伊賀守は「仰せさることながら、関東役人の見込の程をも承らざれば、未だ遽に御請もなり難し」と論ひしかど、予は断然として一向恭順を主張したりき。
英艦に不穏の挙動ありし時、予が沢に命じて操練を行はしめたりとあるは、全く世上伝聞の誤なり。
此時大坂城に留まりしは、永井玄蕃頭と妻木多宮○頼矩。なりしかと思ふ後に聞けば、予が出帆の翌朝、長藩の一小隊隊長は井上聞多(馨)なりしとか聞けり。大坂に著せしが、幕軍は妻木の命によりて少しも抵抗せざりきといふ。
    御東帰途中の事

 明治元年正月、海路御東帰の途中、一旦由良に寄港の命を下されしが、後に御変更ありて江戸へ御直航となれり。由良へ御寄港とあるは、御供の中に再挙の謀ありしが為にて、其議行はれずして江戸御直航となれりと解して然るべく候や。
 又同時に浦賀に御寄港ありしは、山口駿河守を上陸せしめて、横浜なるロッシュに何事をか密談せしめ給はんが為なりと申し伝へ候。
 果してさやうに候はゞ、如何なる御密談に候や。
由良に寄港せんとせしは、当時は非常の暴風にて、常の航路を取ること能はず、蒸汽を止め、風に任せて五十里ばかりも沖合に流されたる程なれば、已むを得ず一時避難せんとせしものなるが、やがて風波も穏になりしにより、再び針路を定めて江戸に向ひしにて、決して大坂に引き返さんなどいふ議論のありし為にあらず。浦賀に寄港せしことは更に記憶せず、されば山口駿河守を横浜に遣はしたりなどいふことは、猶更知らざる所なり。

    御東帰の後松平定敬策を進めし事並に勝義邦進止を取りし事

 御東帰の後、松平越中守は自邸にも入らず、一橋邸・会津邸などにありて日毎に登営し、公に見えて何事をか勧めまゐらせたるも、公は更に耳を傾け給はず、一向恭順謹慎し給ひし由、七年史に見え申し候。果して事実に候はゞ、越中守が勧め申せしは如何なる計策に候や。
東帰の後、予はひたすら恭順を主張せしも、城中の混雑は一方ならず当時戦論を主張せしは独り会桑のみにあらず、老中以下諸有司に至るまで、殆ど主戦論者ならざるはなき有様なりしかば、中には随分抱腹すべき主戦論もありたり。越中守の事も取り立てゝは覚え居らず。勝安房守の如きも、「飽くまで恭順の思召ならば、一死以て御趣意の貫徹に努むべく、若し又雪寃の戦をとの上意ならば、先づ一方には軍艦を派し、桜島を襲ひて薩州の本拠を衝き、一方には艦隊を以て清水港を扼して、官軍を防ぐなどの策もあり、進止いづれとも御意のまにまに遵行すべし」といへる故、予は「断然恭順謹慎して命を俟つべし」と答へしに、勝は大に感激し「然らば飽くまで恭順の御趣意貫徹に向つて力を尽すべし」といへり。大久保一翁にも其旨を諭したるに、是亦勝同様の事なりき。

    松平容保松平定敬江戸退去の事

 松平肥後守・松平越中守の、東帰後各江戸を去りて恭順せるは、公の御戒諭によれることゝ察せられ候、さやうに候や。
越中守の柏崎に、肥後守会津に退去謹慎せしは、予が内諭に出でたるやに伝ふれども、事実如何なりしか、確には覚えず。但、たとひ予が帰国を命じたりとするも、戦備を整へよとの意にあらざるは勿論なり。

    仏国公使再挙を勧め申せし事

東帰の後、仏国公使ロセスが再挙を勧めたることは嚮にも話したるが其時、初は小笠原壱岐守も陪席せしに、ロセスは言を尽して再挙を図るべき由を勧告するにより、予は壱岐守を退席せしめ、塩田三郎のみを通訳として、ロセスと対座にて、懇々と日本の国体は他国と異なる所以を説き聞かせ、「されば予はたとひ首を斬らるゝとも、天子に向つて弓をひくこと能はず」といへるに、ロセスも遂に感服して、「然らば思召次第に遊ばさるべし」といふに至れり。壱岐守を遠けたるは他に漏洩せんことを慮りてなりき。

    上野へ御退去の時近藤勇警衛の事

東帰の後、上野大慈院に立退く時、有司の議は、もはや人払などすべきにあらずと決せしかば、近藤勇○昌宜。は、さありては途中万一の変も計り難しとて、新選組の面々と申し合はせ、城より上野までの間、処処に部下を配置し、密に護衛せんと苦心せしに、評議一変して常の如く人払せしめしかば、近藤は大に憤怒せりといふ。此事後に大慈院にて聞けり。

    水戸へ御退去の期日延期の事

 明治元年四月四日、勅使橋本少将実梁。柳原侍従前光。江戸城に入り、水戸にて御謹慎の事、江戸城引渡の事等五箇条を、田安中納言に達せられたる時、「本月十一日を期して右の各件を処置すべし、此期日既に非常の寛仮に属すれば、此上歎願哀訴等は断然聞し召されず云々」と申し渡されしかば、七日中納言より、「慶喜は来る十日水戸表へ退去謹慎仕るべし」と御請せしに、実際は一日延期して、十一日に御出立ありたり。世には其延期の理由は、表面御病気との御申立なれども、実は江戸城の無事引渡を見届けたる上、御心置なく水戸に退去し給はん為なりと申し伝へ候、さやうに候や。
それは記憶なし。十一日までに万事処置すべしとある上は、十一日に退去して然るべき筈なるに、殊更に十日と御請せしは、或は一刻も早きがよしとの意なりしか、今確には覚え居らず。

    水戸へ御供の兵隊の事

 水戸へ御退去の時、彰義隊は水戸まで御供すべきに定まりたるに、千住より御還しありたる由、水戸へは少しも御召連なかりしに候や又彰義隊を御還しありしは、其過激を避け給へる為に候や。 
遊撃隊及新選組土方才三(義豊)之を率ゐたりと覚ゆ。は召連れしかと思へど、彰義隊の者を召連れしことはなし、多勢を伴ふことを憚りしが故なり。尤も千住まで見送りし者は此外にも多勢ありしが、此処にて自ら一同に恭順の趣旨を演達したるが如きことはなかりき。。(昔夢会筆記P664-669)