木戸の征韓論

明治政府と木戸孝允

王政復古の政変は、 慶応3年ー 2月 9 日に起こった。 ここで大活躍したのは、 公家の岩倉具視であり、 薩摩藩士の西郷隆盛大久保利通らで、 木戸孝允はまだ長州の山囗に在って討幕出兵の準備に余念がなかった。 木戸が、 京都の維新政府から上京命令を受けたのが同月半ばで、 京都に入ったのは鳥羽・伏見の戦いも済んだ翌慶応4年正月 2 ー 日のこと、 2 5 日に徴士・総裁局顧問を拝命した。 新政府の重鎮木戸孝允の門出である。 幾人かいる長州藩の政治家総代の一人の位置に木戸孝允は立っていたのである。
その後は、 参与、 外国官房ひ矢口事丶 待詔院出仕、 参議 (3年6月~7年5月)、 特命全権割使、 文部卿 (7年ー月~同年5月)、 兼内務卿、 再度の参議 (8年3月~9年3月)、 宮内省出仕、 内閣顧問等を歴任したが、 その履歴は複雑だった。 つまり、 要職就任を周囲から懇請されても、 多く辞退したり、 要職に渋々就任しても政治方針上の問題でしばしば辞意を表明したり、 政界引退を広めかしたり、 その出処進退は儘ならなかった。維新の元勲、 薩摩派と共に政府の根幹を支える長州派の代表である木戸孝允明治10年間は、政治の現状に対して不平不満が多く、 その行路は不安定で複雑だったのである。 木戸の出処進退が複雑だった原因が何であったのか。 この問題を考察しながら、 初期明治政府の性格と政治家木戸の個性を併せて究明する ことが本稿の課題である。

2 維新の目的と征韓論

(ー) 現実主義的目的合理主義者

衆知のように薩摩出身の西郷隆盛大久保利通、 そ して長州出身の木戸孝允は、 「維新の三傑」と併称される。 討幕運動から維新政府の樹立に甚大な功績があったための尊称である。 しかし、 この三傑は、 政治家と しての資質 ・ 性格が三者三様に個性的で、 さ らに明治ー 0年間の経歴も個性的で区々 (まちまち) だった。 西郷は、 戊辰戦争が終わったころから、 自分たちが創り出した維新政府に満足できず、 廃藩置県断行から留守政府の一時期丶 政府を指導したが、 それ以外は政府から離れた位置に立ち、 最終的には明治ー 0年の西南戦争で賊の汚名を着て自刃しるに至る道を歩む。 他方、大久保と木戸とは、時には反目 ・衝突しながらも一貫して危うい提携を持続して、 明治国家形成の基礎確立に尽力した。 大久保と木戸との提携は、 薩長提携の象徴的重みを持っていたのである。
しかしながら、 薩摩出身政治家総代たる大久保利通が丶 殆ど終始一貫して政府の重職に就いて、政府権力基盤の構築、 さ らには新国家建設の基盤構築に全身全霊を打ち込んで尽力したのに対して、長州出身政治家総代たる木戸孝允の足跡は軒余曲折に富んでいだ。 大久保は、 木戸との提携断絶は薩長提携の破綻を意味すると理解して、不平・不満の多い木戸を極力立てて、 政府につな ぎ止めることに多大の努力を傾注した。 木戸は自己を主張しつつも、 結果的には大久保を支持したのである。と ころで、 歴史家徳富蘇峰は、 木戸孝允を 「理念的政治家」 (『近代日本国民史・明治三傑』 講談
社学術文庫版、 4 4 5頁) と性格規定した上で、 次のように解説している。 「木戸は決して単純なる理念家ではない。 乾燥無味、 我が考えたる所を遮二無二押し付けるというがごとき狭陰なる理屈屋ではない。 むしろ何れかと言えば世情に通じ、 人間味豊かな人物である。 しかも、 彼の頭脳は、一面詩人的であると同時に、 また論理的であり、 理路整然、 条理分明、 始終一貫するの傾向がある。従って丶 彼は国家の重大なる評定には、 欠くべからざる人であるが、 それを実行する責任者と しては、 寧ろ不適任というても過言ではあるまい。 それは彼が余りに自説を主張し、 他と妥協するを好まず、 また健康を害して丶 激務を執ることに甚だ困難であり、 且つ一面非常なる感情家であり、 その感情の興奮するところ、 ややもすれば女性のヒステリーに類するが如きことさえ少な」 (同前書、4 6 9~7 0頁) くなかった、 と。 そのうえで、 蘇峰は 「大久保は丶 自ら進んで、 或いは自ら好んで責任の衝に当たらんと欲したが、 木戸は出来る限り責任の街に立っことを回避した。 これは、 木戸が責任感の希薄なるがためといわんより も、 余りに濃厚なるがためであったかも知れぬ」 (4 62頁) と比較した。
木戸孝允は、 政治行動の目的を何時も強く確認しつつ行動した。 幕末最終局面の木戸の政治目的は、 外圧高揚に対処して、 乱れた朝幕関係の大義名分を正すにあった。 乱れた大義名分状況では外圧対抗の国家的態勢がとれないと確信したからである。 明治期の彼の政治目的は、世界の情勢(「宇内之大勢」) を睨みながら、 欧米列国に並列することが出来る新国家の建設であった。 維新の目的のキーワー ドは、 「宇内之大勢」 に追いつくであり、~換言すれば欧米列強の世界跳梁という新しい時代情勢の中で 「皇国を維持する」 ことであった。 そのことはまた、「世界万国と並立する」とか、 「世界万国と対峙する」 という言葉で語られた。 しかし言うまでもなく、 この様な認識は、時代の認識であって、 木戸にのみ特有のものでは勿論なかった。 しかし、 それにしてもこのキーワードを原点と して木戸の政治発想は目的合理主義的に展開された。 そ して、 幕末動乱期に恩師吉田松陰から実体験的に深く学んだ、 公明正大で「誠意」ある政治を常時目ざそう と心掛け、 なおかつ空理空論に走る事なく、 政治・社会の現況を見据えながら発想を脚色する現実主義を同時に具えていて所に、 木戸の木戸たる所以があったといえるのである。 「理念的政治家」 の色彩は徳富蘇峰が指摘したように強かったが、 単純な理念家ではなく、 明らかに暇な現実主義的目的合粧義者であった。木戸は、 「維新の目的」 (「維新之宏読」 「維新之皇読」) を先ず明確に認識しなくては政治行動は始まらないと強調する。 例えば、 「版籍奉還の建言書案」 (『木戸文書』 8巻、 2 5頁) では、 次のように表現している く註ー)。 曰く 「抑一新之政たる無偏無私、 内は普く才能を登庸し、 専ら億兆を安撫し、 外は世界各国と並立し、 以て邦家を在置富岳之安」 (2 5頁) と。 また、 同年ー ー 月の「賞典様給与中止の建白書」 (同前書、 7 6~7頁) では、 「抑一新之御盛挙は、 内億兆 (国民の意)をして安撫、 其処を得せしめ、 外世界万国と並立する之叡旨にして、 誠に前途之目的、 不容易。 新之御盛挙は固より希有之御成業と誰も、 必 (華) 寛内国の事に係わり、 自今海外に関渉して、)為
将来不良事由を被為定候は、 真に至重至大、 未曾有之御事にして、 前途實に悠遠と奉存候。 今日内治之艱難に際し、 挺身命、 報美麗家候は、 元々志士仁人之所不避に可有之、 就而は速に今後天下一致、 対海外候而皇国之基本確定仕候事、 至切至要と奉存候」と述べたが、これな どは維新の目的表明の典型的文型である。

3月 ー 4 日に天皇が公卿・諸侯以下百官百僚 (政府高官) を率いて天神地祇を祀り、 国是5箇条を誓約した所謂 「五箇条の誓文」 に、 「旧来の胴習を破り天地の公道に基く べし」(第4条)、「知識を世界に求め犬に皇基を振起すべ し」 (第5条) と有るのは、 先日まで破約接夷の急先鋒だった長州藩のリ ーダーである木戸が特に深く関与した所である。
ところで、 明治期 ー 0年間の木戸の政治行動は、 明治4年ー ー月から6年7月までの米欧回覧の一年半を中に挟んで、 目的を追求する方法論の面に大きな変化が認められるのである。 戊辰戦争から廃藩置県まで、 木戸は朝藩制的割拠体制の打破、 中央集権制の採用に当面の目的を設定して、命を懸けて運動した。また、この時期の木戸は丶 目的を目指すのにやや性急で、 「開明官僚」 の首領の位置にあった感が深い (註2)。と ころが、 米欧回覧から帰った後の木戸は丶 明らかに意識的に新国家建設に漸進主義を選択した。そして、 当面の目標を立憲政治導入の基盤構築に設定して、 併せて国民教育と民力酒養の必要性を極力主張したのである。まず始めに、 明治初年における木戸孝允征韓論から見て行こう。

(2) 木戸の征韓論

京都に到着して参与・総裁局顧問を拝命した翌月、 慶応4 (ー 8 6 8) 年2月、 木戸は朝廷に「至正至公之心を以て七百年来之積弊を一変 し、 三百諸侯を して挙而其土地人民を還納せ しむべ し」と建言した。 維新政府要人の中で、 木戸が初めて 「版籍奉還」 の必要を公言したのである (『木戸松菊略伝』 2 0 5頁)。 「版籍奉還」 の構想は、 朝藩的寄り拠体制を打破して 「皇国の一致一定」 「朝廷政府への権力帰一」 =廃藩を目指す第一着手である く註3)。 また同月、 木戸は外交方針が開国未ロ親に確定したからには丶 朝鮮に使節を派遣して新しい国交を樹立すべきであると建言したので
ある (同前書2 3 4頁)。
しかし、 当時は戊辰戦争の最中で維新政府には、 木戸の二つの建言を取り上げる力量は無く、 一般的状況は整っていなかった。 それどこか、 「版籍奉還の建言」 は外部に漏れて、 木戸は激しい反感に晒され、 命まで狙われたのである。 三年後、 4年7 月 ー 4 日、 廃藩置県の話勅換発の日の『日記』 に、 「余御一新の際、 諸藩京都