明治維新 征韓論

明治6年1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助閣議にお 明治初年、政権の中枢で征韓論を首唱したのは木戸孝允であるが、この征韓論をいわば日本中を征韓論で熱狂させる役割を果したのが佐田白茅である。

松陰は困難打開の道は歴史の教訓に学ぶべきと考え、神功皇后のやったことをもう一度やれということです。 絶対的尊王論を唱える松陰にとって、徳川幕府と朝鮮の対等の外交関係は許しがたいものであり、朝鮮は日本に臣属すべきであり、それが征韓論につながることになる。木戸は 明治元年 12月 14 日の日記に 岩倉具視に問われて次のように言ったと記しています。すなわち、「明朝岩公御出達に付、前途之事件御下問あり。依て数件を言上す。尤其大なる事件二あり。一は速に天下の方向を一 定し使節を朝鮮に遣わし彼無礼を問い、彼若不服ときは鳴罪攻撃其土に神州之威を伸張せんことを願ふ。然るときは天下の陋習忽一変して遠く海外へ目的を定め、隨て百芸器械等、真に実事に相進み、各内部を窺ひ人の短を謗り、人の非を責め、各自不顧省之悪弊一洗に至る。必国地大益不可言ものあらん」(木戸孝允日記)という。ここで「彼の無礼を問い」とは、つまり徳川と対等な関係にあることを「無礼」とみなしている。朝鮮は目下の国でなければならないということです。王政復古を理念として成立した維新政府にとって、日朝関係も本来の姿に戻すべきものとされた。そして、朝廷親交となるからには、書契(外交書)には、「皇」「勅」という文字を使用しなければならないこととなる。しかし、対等の外交を主張する朝鮮はそれを拒否する。つまり、書契問題をめぐる対立が生じることとなる。 対朝鮮外交については、断交論、朝鮮への皇使派遣論、日清交渉先行論、の3つの考えがあった。日清交渉先行論は、清と対等の関係に立ち、日朝交渉を有利に進めようとするもので、これは直ちに使節が派遣された。一方、 朝鮮への皇使派遣論 については、 明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰し征韓論論争に発展する。
この神功皇后は、その後の日本人の思想と行動に大きな痕跡を残した。日本人が、いきなり朝鮮半島を征服しようとするとき、正当性根拠として、いつも、神功皇后が持ち出されるのである。その理由は、神功皇后の征服いらい、三韓朝鮮半島)が、日本を版図であるからという一方的な理由によるものだ。それゆえ日本は朝鮮への出兵も征服も自由だとし、また日本が何か朝鮮に要求があれば、いつでも朝鮮は日本の要求に従わなければならない。と、こういう理屈をたてたのだ。
、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。

明治6年1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助閣議にお 明治初年、政権の中枢で征韓論を首唱したのは木戸孝允であるが、この征韓論をいわば日本中を征韓論で熱狂させる役割を果したのが佐田白茅である。佐田は九州久留米藩士で、長州の尊攘論に加担した嫌疑で5年程、久留米藩の獄舎に幽囚される。明治維新となって勤皇ぶりが買われ、新政府に出仕することになった。白茅は早くも明治初年に征韓建白書を政府に出したという。「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速かに手を容るるが宜しい」(「征韓論の旧夢談」)というものである。さらに翌2年にも同趣旨の第2回目の建白書を出した。これが利いたのか外務省も同じ考えであったのだろうか同年10月、太政官より、「朝鮮国へ出張仰せつけ候こと」という辞令を受けた。

 ところで白茅の征韓建白書にある「朝鮮は応神天皇以来、義務の存する国柄」とは何を意味するか。応神は 神功皇后の息子である。「神功皇后三韓征伐で韓三国を朝貢国にし」たという説話を受けて、徳川幕府から統治権をとり戻した「王政復古」の今、国内統治権だけではなく、朝鮮への統治権天皇親征の昔に戻すべきを図れ、ということにある。この主張は白茅だけのものではない。木戸孝允明治元年閏4月、「朝鮮位は皇国版図に加へ申したく」と三条実美岩倉具視あてに書簡を送っていて、この時期の征韓論者の真意図がここにあったことが知れる。明治新政府は、朝鮮の国書受取拒否は日本に対する侮辱として征韓論を煽る口実にしたが、はじめから、日本への服属化を目指した国書では、どちらが先に侮辱を加えたかは明白であろう。

 ともあれ白茅は明治2年12月東京を出発、長崎を経由して翌年1月末対馬厳原に到った。同行者は同じく外務省出仕の森山茂と斎藤栄、そして長崎で医者の広津弘信を従者に加えている。彼らは2月22日、釜山に到り、倭館に滞在すること20余日、鋭意朝鮮関係での問題点を調査した。3月、帰国、連名で提出されたのが、「朝鮮国交際始末内探書」である。この「内探書」では江戸時代の朝・日関係と、対馬の役割に不信を示し、その他の問題でも不備を指摘し、皇使を派遣して関係改善を図るべきを言い、また朝鮮の軍備にふれ、これは「本朝の古流に類したるもの」で問題にもならない、としている。そのうえで白茅、森山、斎藤の3人は、それぞれの立場で建白書を出している。佐田白茅にとっては第3回の建白書である。森山、斎藤建白書は要するに「書契」を下して3年、「皇」「勅」を理由に受取の拒否は皇朝を辱しむるもの、今や皇使を送って説得し、「万一、我に拒敵せば我れ彼を鏖(みなごろ)すとも万国公法(国際法)に於て何の辞柄あらんや」という乱暴なものである。佐田白茅の建白書は、「日本外交文書」記載の分は漢文(白文)で書かれているが、明治8年3月に彼が「征韓評論」と題する小冊子中に収めたものは、返り点をつけた漢文である。その要点は次のようである。

 日本の書契(国書)の文字に難くせをつけるのは、「これ朝鮮、皇国を辱(はずかしめ)るなり」、日本は皇使を下して、その罪を問うべき、とする。「朝鮮は守るを知って攻めるを知らず、我を知って彼を知らず、その人、深沈、狡獰(わるがしこく、つよい)、固(こ)、陋(ろう)、傲頑(ごうがん)、これを覚(さと)せども覚らず、これを激すれども激せず。故に断然、兵力を以てここにのぞまざれば、即ち、わが用を成さざる也。いわんや朝鮮、皇国を蔑視」しているとして、「君、辱れば臣、死す、実に天を戴かざるのの寇(あだ)なり。必ずこれを伐(う)たざるべからず。〜速(すみやか)に皇使一名を下し、また、大将一名、少将三名を撰び、三十大隊を引率して、」もし降伏しないならば「皇使、忽ち去り、大兵、にわかに入る、その一少将は十大隊を卒い、鴨緑江を溯(さかのぼ)り、咸鏡、平安、黄海の三道より進む」。こうして追い詰めたら「必ず、五旬(註:一旬は10日)を出でずしてその国王を虜(とりこ)にすべし」というものである。
白茅の征韓建白書は、その朝鮮出兵論は幾多の人々の脳髄を刺激し、広汎な人々をまきこむ一大素地を作ることになる。