国威宣布ノ宸翰、慶応四年三月十四日

朕幼弱を以て猝かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり窃に考るに中葉朝政衰へてより武家権を専らにし表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざる様計りなし遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くにて朝威は倍ます衰へ上下相離るること霄壌の如し斯る形勢にて何を以て天下に君臨せんや今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは皆朕が罪なれば今日の事朕躬ら身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち列祖の尽させ給ひし蹤を履み治績を勤めてこそ始めて天職を奉して億兆の君たるところに背かざるべし往昔列祖万機を親らし不臣の者あれば自ら将として之れを征し給ひ朝廷の政総て簡易にして此の如く尊重ならざる故君臣相親み上下相愛し徳沢天下に普く国威海外に輝きしなり然るに近来宇内大に開け各国四方に相雄飛するの時に当り独り我国のみ世界の形勢に疎く旧習を固守し一新の効をはからず朕徒らに九重の中に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るる時は遂に各国の凌悔を受け上は列聖を辱しめ奉り下は億兆を苦めんことを恐る故に朕ここに百官諸侯と広く相誓ひ列祖の御偉業を継述し一身の艱難辛苦を問はず親ら四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置かんことを欲す汝億兆旧来の陋習に慣れ尊重のみを朝廷の事と為し神州の危急を知らず朕一度足を挙げれば非常に驚き種々の疑惑を生じ万口紛紜として朕が志を為さざらしむる時は是朕をして君たるの道を失はしむるのみならず従て列祖の天下を失はしむるなり汝億兆能能朕が志を体認し相率ゐて私見を去り公儀を採り朕が業を助けて神州保全し列聖の神霊を慰め奉らしめば生前の幸甚ならん



明治維新の御辰翰の「万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布」する精神からしても、無礼な朝鮮を討つのが正しいという認識は多かれ少なかれ明治政府にあったのでしょう。

1868年に徳川幕府を倒して成立した維新政権は、はじめから征韓の意識があった。維新政権が反対派大名の武力抵抗を大体において鎮圧してまもない同年末に、早くも政府首脳部は、朝鮮侵略の計画をたてている。参与木戸孝允は、この年三月一四日、議定岩倉具視の「前途ノ事件」に関する諮問に答えて数件をのべた。その日の彼の日記には次の如くある。

 「モツトモ其大ナル事件二アリ、速二天下ノ方向ヲ一定シ、使節ヲ朝鮮ニ遣シ彼ノ無礼ヲ問イ、彼モシ服セザル時ハ罪ヲ鳴ラシテ攻撃、大ニ神州ノ威ヲ伸張センコトヲ願ウ。然ル時ハ天下ノ随習忽チ一変シテ、遠ク海外へ目的ヲ定メ、随テ百芸器械等真二実事二相進ミ、各内部ヲ窺ヒ人ノ短ヲ誹り人ノ非ヲ責メ、各自顧省セザルノ悪弊一洗二至ル。必ズ国地ノ大益言フベカラザルモノアラン」

「……主として兵力を以て韓地釜山を閑かせられたく、是れ元より物産金銀の利益はこれあるまじく、即て御損失とは存じ奉り候へども、皇国の大方向を相立て億万生の眼を内外に一変仕り、海陸の諸技芸等をして着実に走らしめ、他日皇国をして興起せしめ万世に経持仕候処、此外に別策はこれあるまじく、未だ蝦夷地(北海道)を開く能はずして他へ手を出候(はよくない)などの説もこれあり候へども、是則ち一を知て十を知らざるの説にて……韓地の事は皇国の御国体相立て候処を以て、輝今日の宇内の条理を推候わけにて、東海に光輝を生じ候はここに始まり候事と愚考仕候。もし一千書相交へ候ときは、必ず急迫に致さず、凡そ年々の入費を定め、一地歩を占め候上、とくと後乗の繁を立て、其力の続くべきものを以て倦怠なく尽力仕候ときは、必ず両三年を出でずして天地大一変、実行柏挙り、万世不抜の皇基弥相すはり申すべし。」(『木戸孝允文書』第三)


明治政府内における征韓論は、木戸孝允によって唱えられたのが資料的に最初である。六年の征韓論の際、木戸はかつての征韓論版籍奉還前の諸領主が軍隊を持っていた時代に、朝廷直轄の軍隊を作り出して国内の反対勢力を圧倒するための方便だったと説明している。

当時木戸は版籍奉還を構想しており、朝廷直轄の軍事力はその手段と考えた。藩に属す武士も、征韓のためなら、藩を離れて朝廷の下に集まると見込んだのである。

武士は主君に奉公し、その代償として領有権や俸禄を受ける。武士の奉公の最も重要なものは戦うことだから、武士の名誉も経済的利益も戦うことによってもたらされた。その意識は、明治に入っても急には変わらない。明治政府は戦功者に賞典禄を与えており、藩の内部でも戊辰戦争の戦功者が高い地位を得たり、藩主の賞典禄が戦功者に再配分されるなど、戦功こそが武士の政治的・経済的地位をもたらしていた。現在の自分の地位に不満をもつ武士がいる限り戦い、それも戦争目的に幅広い合意があり、天皇への奉公を示せる戦いが期待された。

国内が統一された後、名義が立つ対外戦争であれば相手はどこでも良いのであるが、敗戦によって国家がゆらいでしまってはいたしかたないし、時期はなるべく早い方が良かった。その格好の対象が朝鮮だったのである。木戸はじめ山口に基盤を持つ新政府首脳たちは、版籍奉還廃藩置県と国内統一が実現し、脱隊騒動で戦功ある不満分子を弾圧してしまえば征韓にこだわる必要性は低くなった。しかし、鹿児島・尚知・佐賀出身の首脳たちは、それぞれ同郷人の征韓の要求へ対応せざるを得なかった。新政府がその地位の安定を求めるなら朝鮮の無礼を許さず、武力を発動して国威を発揚するという課題を、これら一般士族の力を使わずに、また西洋諸国の批判を受けないようにはたすことが望ましかった。江華島事件軍事技術的にも外交論理のうえでも西洋に倣うことで、士族一般はもちろん、徴兵制陸軍の力すら用いずに「征韓」は達成された。これは西洋に倣う「開化」のみごとな成果であった。征韓の夢を見られなくなった不平士族は、直接に新政府へと刃を向けざるを得なかった。