明治政府と清国との交渉

当時の日本は朝鮮を清国の属国であることを認めていたので、朝鮮に罪を鳴らし、兵を動かすことは、朝鮮が清国に助けを求め、日本は清国と火蓋を切り、戦端を開くことを恐れていたのです。
明治政府は清国と戦争するための兵力や装備などが整えるはずがない。つまり、清国との武力対決がなく、あくまで朝鮮だけを相手にすることが望ましかったのである。新政府は朝鮮との旧来のしきたりを破ったやり取りでなどの問題で交渉が進まなかった。新たに考えた方法は清国を通して交渉する方法であった。清国は伝統の華夷秩序体制のなかで重要な位置を占めていたことを明治政府は認めていたからである。朝鮮を属国としていた清国政府との関係調整が、求められ、大久保利通朝鮮出兵に先立ち、日本と中国間に対等の立場で条約を締結することを提案した。日本と中国が対等な条約を結ぶならば、中国への藩属を自認する朝鮮は、日本の主権者が皇帝と同格であることを認めなければならないというのである。この方針にもとづき、日本政府は、明治3年、日中対等の条約締結を予備的に交渉する使節団を中国に派遣し、清国との対等条約締結の予備交渉が成立した。しかし、当時は西欧の不平等条約下にある清国に対しては、日本もまた不平等条約を締結しなければならないと指摘する声もあり、日本は 1861 年にプロシアが清国と結んだ不平等条約にならった条約案を起草した。日中条約交渉のために明治4年に派遣された全権団は、この条約草案を中国に受諾するようもとめたが、中国は拒絶し、逆に両国領土の相互不可侵と侵略をうけたときの援助をおりこみ、互に領事裁判権を認め合う変則的な対等条約を提案した。日清間の対等条約こそ、日本側が予備交渉で強く希望したものであったと李鴻章が交渉の席で指摘した。日本全権はやむなく中国側原案に調印して帰国した。これが明治4年7月29日に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約日中修好条規である。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。しかし、日本政府はこの条約の第二条の相互援助条項が西欧にたいする攘夷的同盟と受け止められることを危惧して、調印した全権代表を越権行為として罷免し、批准交換も明治6年に延期した。 以上見てきたように、明治初期の外交交渉は、主に韓国と朝鮮とに対する国交樹立に関心が注がれていた。当時の考えで述べれば、しかし、これは日本と清国との通商を促進する立場に違いないが、当時の台湾事件と比べ、朝鮮の方は国威に関してもっと重要であった。台湾は清国の領土であり、その罪も琉球人を殺したことであり、朝鮮は我国を侮辱したからはるかに大事であった。そして、朝鮮の北のロシアの脅威の為にも、また、清国や朝鮮に軽蔑されないためにも、世界中の笑いものにされないために兵を出す必要があった。さらに国内関係について、今国内の状況は決して穏やかではなく、人心動揺する際に、兵を海外に派することは毒薬を病人に服すると同じ、いい効果が期待できるのであり、人心の不穏を一挙に海外に転じる機会であったのです。
つまり、当時は台湾とも朝鮮とも問題を抱えているが、清の領土である台湾を討つより、古来日本と相当恨みのある朝鮮を討ち、その無礼を謝罪させるべきだとのことであった。しかも朝鮮を討伐するための政策まで用意したのである。台湾は中国の領土である以上、直接台湾に出兵するにはリスクが多すぎた。清国はやはり大きく、全力を上げて戦っても、必ず勝てるものではない。そして、明治6年4月30日、外務卿副島種臣交渉によって、ようやく二年前の条約が批准書交換され、発効した。この条約は変則的な平等条約であるが、日本国内の注意を引かないように配慮され当時新聞には詳細を書いてなく、ただ事務的に中国と条約を結んだと伝えただけであった。
と条約を結ぶことで、中国との外交関係は一応できたのであるから、つぎは朝鮮と外交関係を結ぶことに集中できた。しかし、この時から、日本では一部朝鮮が日本の領土であったという説が起きた。つまり古代は中国の属国であるが、そのなかで百済、高麗といった国が日本に属していたし、さらに豊臣秀吉の朝鮮征伐以来、朝鮮の国王が逃げ、当時の明が朝鮮を救えなかったことも含め、朝鮮がもともと日本に属しているという。
明治6年に入り、征韓論が一段と盛んになった。発端は、朝鮮に対して使節を幾度か派遣したが、朝鮮はその文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、受理を拒んだことにある。また朝鮮にある大使館にあたる倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど無礼な態度を取った為、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。
一度は閣議西郷隆盛を朝鮮に派遣するよう決議したが、反対派の参議である大久保利通木戸孝允大隈重信大木喬任らは辞表を提出し、天皇に対する工作が行われ、前の閣議は覆されたのである。そして西郷及び征韓論に賛成する多くの軍人や官僚が辞職し、反対派の大久保利通が政権を握った。
そして、明治7年に入り、征韓論に呼び起こされた明治6年政変が終ると、反対派の一人木戸孝允が3月9日の『東京日日新聞』に文章を-寄せた。-
1873年に入り、征韓論が一段と盛んになった。発端は日本は、朝鮮に対して使節を幾度か派遣したが、朝鮮はその文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、受理を拒んだことにある。また朝鮮にある大使館にあたる倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど無礼な態度を取った為、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。 一度は閣議西郷隆盛を朝鮮に派遣するよう決議したが、反対派の参議である大久保利通木戸孝允大隈重信大木喬任らは辞表を提出し、天皇に対する工作が行われ、前の閣議は覆されたのである。そして西郷及び征韓論に賛成する多くの軍人や官僚が辞職し、反対派の大久保利通が政権を握った。 そして、1874年に入り、征韓論に呼び起こされた明治六年政変が終ると、反対派の一人木戸孝允が3月9日の『東京日日新聞』に文章を寄せた。
...(前略)...台湾ノ如キニ至ツテハ即チ固ヨリ東洋ノ一粟蛮夷人、残ヲ好ム其性然リ、今我ガ琉球人ヲ損殺スルヲ以テ遽カニ伐ツテ之ヲ殲スモ亦豈以テ国威ヲ表スルニ足ランヤ、且夫レ琉球我ニ内附スト雖モ、其意半ハ清国ニアリ、嘗テ聞ク其国ノ人、我ニ対スルノ言ニ、日本ニ父トシ事ヘ、清国ハ母トシ事フト云ヘリ、意フニ其清国ニ対スルニ及ンデハ亦将ニ必ズ言ハントス、清国ニ父トシ事ヘ、日本ニ母トシ事フト、其両端ヲ持スルモノ固ヨリ弱国ノ常情ナリト雖モ、我ノ其人ヲ見ル内地ノ民ト自ラ緩急ノ別ナキ能ハズ、内国ハ本ナリ、外属ハ末ナリ、本ヲ後ニシテ末ヲ先ニスルハ、決シテ策ノ得タルモノニ非ルナリ、仰ギ願クハ内外本末ノ差ヲ明ニシ先後緩急ノ別ヲ誤ラズ、道トシテ我民ヲ撫デ、我力ヲ養ヒ、義務ヲ怠ラズ、才略ヲ失ハズ、名正ウシテ言順ヒ、然ル後チ徐々ニ国ヲ図ラバ事数年ノ後在リト雖モ、誰カ之ヲ遅シトセンヤ、謹デ識ス。

つまりは台湾のことも朝鮮のことも、今はまずおいておき、国内の建設を先にし、民力を養い、数年後日本に力をつけてから朝鮮なり台湾なりを討てばいいという旨の文章である。
しかし、5 月に入り、日本は台湾出兵を強行した。これに対し、先の木戸孝允もこの件について不満を抱き、下野したのである。政府は長崎に待機していた西郷従道率いる征討軍3000名を、小さな軍艦2隻で台湾南部に派遣、5月22日に原住民を制圧し、現地の占領を続けた。
これに対しての明治政府の清国への通達が不十分などから、清国から非難の声があり、連日新聞に取りあげるところとなったのである。 しかし日本では台湾の原住民を清国に属しない「化外の民」という清国の言葉を受け入れ、その原住民たちの土地を無主の地であると認定し、台湾出兵の正当性を強調したのである。
その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した結果、清が賠償金50万両(テール)を日本に支払い、日本の征討軍の撤兵が行われることとなった。 この事件により琉球が日本に帰属するという形になったのだが、清国がこれを認めず、琉球を分割する提案もあるが、結局はうけいれられずに、日清戦争で清国が敗戦するまで解決しなかったのである。 日本の台湾出兵はその時、外交慣例に不慣れであり、各国に対しての通達もなされていないため、日本ほうが難しい局面に直視しているが、イギリスの調停を受け入れます。
近いうちに中国が西洋列強の侵略あるいは分割に逢い、我国も今のうちに朝鮮と戦端を開き、将来への足場として確保すべきという。
是レ我輩ガ韓ヲ征シテ我ガ英誉面目ヲ全フシ、併セテ内国ノ擾々ヲ外国ニ洩サントスルノ主意ナリ。
日本が韓国を征伐するのは、国の栄誉を守るという大義名分以外、併せて国の紛擾を外国に転じることができればいいという日本政府の思惑が、この論説のなかであきらかにされたのである。 日本が朝鮮での外交問題を一応解決した後、それに連れて中国に対する敵意もまた軽減しているように見える。次の記事は清の軍艦が長崎に来航し、発砲した事件に対する感想部分を節録したものであり、 支那にても追追軍備調ふ様子なれば亜細亜洲東方の形勢も遠からずして欧羅巴の富強に譲らざるに至るべし。この記事のなかでは中国の悪口もなく、日中両国ともヨーロッパのように強盛になるであろうという将来展望が込められていたのである。
実際、このような意見は少ないながらも、日清戦争前まではたしかにあったのである。 また、自国の開明に自満し、清国の萎靡不振を軽侮する風潮を批判するものもあった。清国も奮発の可能性あり、同種同文の日清両国はともに蔑視せず、開明の先進を競うべしとする論説はこの年の 11 月28日にあった。
降テ去年北京ノ談判ニ於テ、益々支那人ヲシテ宿怨ヲ懐クノ情ヲ興サシメタリ。特ニ我邦人ハ鋭進勇行シテ開明ノ端緒ニ赴キ、頗ル欧米ノ喝采ヲ博シ得タルガ為ニ頓ニ支那人ヲ軽侮シ、敢テ虞トスルニ足ラザル者ト見做スニ至レリ。於レ此乎彼ガ恨ヲ賈フモ亦益々熾ナラザルコト為ハズ。是レ豈ニ善隣ノ方法ニ於テ策ヲ得タリト云フ可ケンヤ。...(中略)...吾曹ハ果シテ日清両国ノ人民ガ相和セザルハ多年ヲ待タズシテ、恰モ英仏両民ガ相容レザルニ似ルベキヲ知ルナリ。

日本も中国もまた英仏を見習い、互いに平和の道があると述べ、また、
支那決シテ軽侮スベカラザルナリ。...(中略)...斯ノ如キ大国ニ隣リ、徒ニ軽侮ヲ快トシ、彼ヲシテ奮起ノ志ヲ発セシムルハ、是レ決シテ国勢ノ権衡ヲ保ツノ良法ニ非ザルベシ。中国を蔑視することに伴うリスクを民衆に喚起しそれは日本にとっては決していいことではなく、
我邦人ハ東洋ニ於テ開明ノ先進タルヲ以テ、頗ル自満ノ状ヲ帯ビ東洋諸州ヲ軽侮シ、支那人ハ日本人ニ先鞭ヲ着ケラレタルヲ憤リ、漸ク奮発ノ姿ヲ現スニ非ズヤ。...(中略)...吾曹ハ切ニ希望ス、
我邦人ガ早ク隣邦ヲ軽侮スルノ悪念ヲ棄却シ、百年ノ後ニ到ルモ
支那ニ許スニ開明ニ先進ヲ争フノ期ヲ以テセザラン事ヲ。日本が中国を軽侮するのをやめ、共に進歩開化の道を歩み、先進国
の列に共に加わることを願った少数派の意見であった。しかし、清の軍艦来航について、べつの陰謀論めいた論説もあったのである。 (前略...)又一説に云く、支那にては近ごろ何となく日本を気塞く思へり、夫ゆへに彼の政府に在る有志の官員は、常に日本の内情形勢を探索せんことを思ふ者多く、頻りに西洋人などにも聞合せる様になり、口には常に、日本は海中の小島なりとか、貧国だとか軽躁だとか、或は馬鹿だの、発狂だのと悪口を云ひながら、内心は余ほど恐がつてゐる様子だとの説あり、此たび蔡国祥と云ふ武弁を、揚武と云ふ兵船に乗せて、只ぶらりと日本へ遣し、処々に緩る〱泊留するも何か少し訳が有ませうと申すこと。これは清の揚武艦が日本長崎で発砲したという記事と同じ日の記事

である。この艦は日本へ来るのは内情形勢を探索しようとするのではないかという疑いを、この記事は説いた。やはりこの時すでに、両国の相互不信もある程度窺える記事であった。
1876 年 6 月 17 日の『近事評論』では、外交についての人材を選ぶ基準として、
「豪傑」を要求するのである。また、文中にも中国の例が出ており、日中両国を比較対照するかたちで一つの記事を展開していた。
(前略...)支那ノ如キ、中華ヲ以テ自ラ誇リ、夷狄ヲ以テ外国ヲ視、我国人毎ニ其頑固迂闊ヲ嘲笑スルト雖モ、輓近屢々外交ノ苦難ヲ経歴スルヤ、大ニ外務ノ重ズベキヲ了知スルモノヽ如シ。一昨年、我大久保弁理大臣ノ、北京ニ於テ交換シタル条款書ニ、大臣十名之ニ連署スルヲ以テ、其一端ヲ見ルニ足ルベキナリ。
中国の西洋に対する外交の窮境を紹介し、次々の不平等条約を強いられた後、漸く外交人材の重要性に気づくのである。逆に、日本には大久保利通という立派な外交人材がおり、台湾事件の時、大久保弁理大臣と交換した条約では十人の大臣の名が連ねるということである。国々の国情が違い中国の方の習慣を理由も聞かずただそれを笑いの種にするようなことはやはり日本明治維新以来中国に対する物事の考え方ではないか。
1876年に入り、中国では動乱が起き、外圧が迫った。日本も狭い海を隔てるだけであり、中国の情勢について心配の顔を隠せない様子である。