木戸孝允の征韓論

木戸は、明治元年の暮から翌2年の正月にかけて盟友で軍事の元締めを精力的に勤める大村益次郎に盛んに「征韓論士を説いて、賛同を得ていた。大村に説/仁「征韓論上の動機も不満足な現状打破の方策としてであり戊辰戦争終了以後却って益々曖昧に成り行くト「維新の目的⊥認識の明確化であった.
そして、2年の元日には、相当詰めた話し合いが成された模様である。大村に送った書簡は、以下の通りである。 
「(明治2年)正月元日、粗御相談仕置候後も、尚情将来之大勢を推考仕候処、今日之人情に面相移り候時は、大政一新之御趣旨も乍恐いかy相成可申欺。元来御ブ新之御一新たる所以は、皇国を御維持被為遊候而こそ、始而御名実相叶候訳に御座候処√哀哉可浩歎は、J宇内之大勢に対し候時は皇国之急、昨年より今日に迫り候処、唯目前之一平定に而、上下とも其理通徹仕兼、多くは今日に大安堵仕候而、前途大興起之目的更に相窺はれ不中。尤春来、徳川氏の頭面を撃挫き候は大政一
新におゐて不得止之一条理に而、是而已に而大政一新は相済候ものと相心得候而は、天下億万蒼生之大罪人に政府は組成申候1(『木戸文書JJ3巻、230〜3∧1頁』∧と厳しい危機感を述べる。次いで「前途之目的相窺はれずと坤候も、天下之諸侯も自分々々こは兎も角」も√其藩々々に於いては巧妙之念勃々に而、諸藩挙而賞論之事而已之外は、議論も無之、其上旧幕府之時よりも自然と\騎気は相募り、藩力を以我儒等相応に朝廷は中立、名義と欺名分と欺蝶々申候も、多くは声而已に成行、宇内之大勢を察し皇国をして万世維持仕候など申辺之所作ぶりは毫も相見不申、:唯々已に利を引候様之風習に相移り、却て人の非は探・り、人之能は妬み、人の悪は怒り√元来日本之人、規模狭小と申処の可有之候得共、全其而已にも無之、大道之衰たる処も可有之、第二太政官に於いては肝要なる会計之目的も今に相立不申、是亦今日之姿に而ぱ日本も太政官も会計に而つぶさ=れ候様相成可申、(中略)如此事に而は、天下之風俗を一変候は所詮六ヶ敷相考申候。依而益切迫に存込中候は、つ軍94 高知大学学術研究報告丿第44巻(1995年)人文科学務に於て大方略御一決に相成、先函館之¬条(注一榎本武揚らが箱館五稜閣に立て寵もり、明治2年5月まで抵抗七だ)御平定に至候は卜〉海陸之処於朝廷梢御備被為立ミ唯偏に:朝廷之御方を以、韓地釜山附港を被為開度l是元より物産金銀之利益は有之間敷k却而御損失=とは奉存候得共、皇国之大方向を相立、億万生之眼を内外に÷変仕、海陸之諸技芸等をして実着に走ふしめ、他日皇国をして興起せ七め、万世に維持仕候処、尚此外に別策は有之間敬丁云々と。