統帥権

この国のかたち」の第四巻目「統帥権」の内容を抜粋する。
司馬遼太郎は「統帥権」について、何回にも分けて書いている。彼は、先の大戦の誤りは、あいまいだった「統帥権」にあったと考えている。日本の歴史上「統帥権」があいまいに形成されて行く過程をまとめようとしたが量的に多くなってしまった。
幕府は、アヘン戦争という衝撃波に対し、鋭敏に反応した。国家を防衛する力はなかったとはいえ、武の原理の上に立っていた政権だけに、"敵情"については鋭敏だったといえる。
また日本にとって幸いしたのは、厳格な鎖国をおこないつつも、長崎一港だけは限定的に開港していたことであった。つまりオランダ商人と清国商人に対してのみ通商をゆるし、そのことで、暗箱にあけた針の穴ほどながら外光を入れていた。
幕府は、長崎奉行に命じ、アヘン戦争が終了した翌年(一八四三年・天保十四年)、情報の収集に乗りだした。
長崎在留のオランダ人には英軍についての情報を、また清国人に対しては、清国の応戦の実態について問うた。調査は、質問書を発し、回答をもとめる形式でおこなった。
幕府は、英国のことなど、ほとんど予備知識がなかったが、西洋学として蘭学が学ばれてきたために、未知の英国を十分想像することができた。
それにしても幕府の驚きは大きかった。そのことは、十数年来、沿岸の諸藩に対して出しつづけていた「異国船打払令」という乱暴な法令をひっこめたことでもわかる(異国船打払令は、文政八年〈一八二五年〉に出された。"有無に及ばず打払え"という容赦のないものだった。幕府にすれば、もしこの令が諸藩によって本気で実行されればアヘン戦争の二の舞になることをおそれたのである)。
石井孝氏の『日本開国史』(吉川弘文館)には、当時清国に駐在していたデーヴィスという貿易監督官が本国の外相アバディーンに送った秘密書簡がかかげられているその秘密書簡では"つぎは日本だ"とある。
さらにデーヴィスは、対日遠征計画もたてていて、日本への接触(攻撃開始といっていい)は、一八四六年(弘化三年)以後という予定だった。
が、実現されなかった。理由は英国東洋艦隊が清国一つに忙殺されていたのと、日本という貧寒たる市場に魅力を感じなかったことなどによる。
アヘン戦争という衝撃波が日本社会にもたらした産物は、在野評論を成立させたことである。世論は、圧倒的な力をもって沸きあがった。
それまでの幕藩体制は、『論語』の「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」を都合よく解釈して、為政者絶対主義というべきものだった。ときに在野評論が存在しても、幕府はしばしば"妖言ヲナス"などといって弾圧してきた。
が、外患は、幕藩体制の次元を超えた日本国意識をひとびとのあいだにうん醸させた。
それらのなかで印象的だったのは、"東洋道徳・西洋芸術"をとなえて西洋の科学技術を導入すべきだとした信州出身の人佐久間象山や、知識人こそ日本国の危難のために殉ずべきだという軌範を示した長州出身の吉田松陰、また民間にあってもっとも早い時期にロシアおよび列強のアジアへの勢力伸張と海防と経済の充実を説き、江戸日本橋の下を流れている水はロンドンのテムズ川に通じている、という意味の文章をもって暗に鎖国の愚を調した林子平などがいた。
どの国でもそうだが、歴史がかわる胎動期にはまず思想家があらわれ、その多くは非業に死ぬ。
右の三人のうち林子平は幕府から言論弾圧をうけただけで命まではとられなかったが、象山は国粋派のテロによって京の路上で殺され、松陰は幕府の刑場で殺された。

江戸時代の京都はさびしかった。
ところが、幕末、一変した。諸国の鎖国穰夷派が京都にあつまり、公家たちの屋敷に出入りして論壇を形成したために、京都が開国に反対する在野勢力の一大淵叢になった。
幕府は、京都御所を擁する在野勢力から"朝命"をもって攘夷をうながされた。つまりは対米戦争をやれということであった。
幕府は、一国を保持する責任政権である。
幕府は、矛盾にくるしんだ。"攘夷などできない"と公然と言えば、兵馬の権をゆだねられている征夷大将軍(将軍の正称)として鼎の軽重を問われる。将軍の称号は、夷(外国勢力)を征するという意味なのである。
鎖国攘夷派は、幕末の初期でこそ純粋だったが、やがて反幕の政略として鎖国攘夷論をつかいはじめる。
ついでながらこの種の在野言論の政治的詐術はその後風土化し、太平洋戦争のあとの反政府運動にも頻用された。
一例をあげると、昭和二十六年(一九五一年)を頂点に言論界や野党のあいだで轟々ととなえられた"全面講和"騒ぎがある。時の吉田内閣が、アメリカを中心とした旧連合国四十八力国と単独講和を結ぼうとしている現実路線に対し、ソ連など社会主義国を加えて"全面とせよ"という非現実路線を高唱するものであった。吉田茂首相は、たまたま、"全面"に雷同した時の東大総長に対し、議会で、
曲学阿世の徒」
と、古風かつ痛烈すぎる表現で調した。おそらく幕末以来、風土化した在野世論の型に入ることによって世に阿っている、ということであったろう。

京にあっては薩長の兵四千五百が、幼少の天子を擁している。
薩長は、朝命と称し、大坂の慶喜に対し、その領地をも返納するよう強要した。
これに対し、大坂城慶喜の身辺には、会津・桑名の藩兵が多数いた。かれらは"薩賊"とよんで薩摩藩の横暴に激昂した。ついに正月早々、京都にむかって押し出すことになる。作戦行動という明快なものでなく、武装陳情というあいまいなものだった。
総数一万五千、先鋒は新選組会津・桑名の藩軍で、これに大坂で徴募した"歩兵"という庶民兵が加わっていた。
ただし、統帥者がいなかった。
将軍慶喜が陣頭に立つわけでもなく、傍観者として大坂城にいた。
鳥羽.伏見での敗報が大坂城にとどくと、慶喜は味方にも報らせず、会津・桑名両藩主をつれ、夜陰にまぎれて城を脱出し、海路江戸にもどった。
慶喜が、大兵を擁しつつみずから敗北の体をとったのは、後世に賊名をのこしたくなかったからといえる。いわば軍事行動というより思想行動をとった。
その後の戊辰戦争にあっても、慶喜自身、その統帥権を用いることはなかった。
薩摩も、藩父島津久光にいわせれば、かれの知らぬまに藩軍が家臣の西郷隆盛らの手で勝手に動いて明治維新を樹立させたことになる。長州藩主にとっても、それに似ていた。
戊辰戦争にあっては、徳川家・諸大名とも、それぞれの統帥権は、あいまいであった。委任もしくは政略による委任でもって、有志や実力者によって軍が動かされていた。薩摩の藩父島津久光が、藩軍を勝手に動かした西郷隆盛に対し、「かれは安禄山である」といったことばは、この間の本質を語っている。島津久光という病的な保守主義者にとって、明治維新は本意ではなかったのである。
これによって、わが国の軍隊における統帥権のあいまいさは、すでに幕末にきざしていたといえる。

土佐郷士は、藩士とは名のみの軽格で、農民に毛のはえた程度の武士である。幕末の土佐藩の革命家や明治の土佐名物というべき自由民権家は多くはこの層から出た。
上士は農民を斬捨て御免にできる。その被害をうけそうになった農民を、郷士である庄屋はかくまってひきわたさないというのが、右の申しあわせの骨子である。その思想的根拠ものべられている。
一君万民思想というものであった。
天皇という、当時、無か空に近かった一点を、架空ながら論理の頂点に置くとことによって、浮世は平等になる。将軍も大名も上士も一瞬にして絵空事になるのである。
さらには、農民こそ上古から連続する存在で、従って大名の領民というよりも本質的には天皇の民であるとする。
そういう農民をあずかっている庄屋は、理論の上での天皇の官なのだというのである。

その間、廃藩置県までの四年、新政府は、旧徳川家の直轄領を領地にして食いつないでいた。
徳川家の直轄領はうばったものの、諸藩の領地や士民は手つかずだった。もとの大名が"藩知事"という名のもとで在藩し、日本じゅうは依然として割拠のかたちをとっていた。
それをとりあげ、同時に士族を名実ともに無くすというのが、廃藩置県だった。
その挙にあたって、新政府は慎重だった。まず東京に一定の兵力をあつめた。薩長土三藩が、あわせて一万の藩兵を献上した。当時、献兵とよばれた。やがて御親兵とよばれ、ほどなく近衛と改称された。
政府は近衛兵たちにフランス式の軍帽と軍服を着せたが、中身は江戸時代の武士で、天皇の親兵であるという実感をもたなかった。
廃藩置県と新軍制の推進者のひとりであった長州の山県有朋は、この前に日本橋の小網町の薩摩の西郷隆盛をたずね、
「薩摩出身の御親兵は、一朝事あるときは、たとえ相手が薩摩守(薩摩藩の当主島津氏)であっても弓をひく決意が必要です。それでよろしいでしょうか」
と念を押し、西郷の同意をえた。
西郷が承知したことで、廃藩置県は七月に実施された。諸旧藩の旧藩主たちはあらかじめ東京にあつめられ、貴族として十分以上の経済的裏付けが保証された。
この成功によって近衛(親兵)の役割はおわったが、そのまま東京にとどめられ、翌明治五年には、陸軍の母体になった。

翌明治六年、中将山県有朋は、陸軍卿(のちの陸軍大臣)になり、いよいよ徴兵と鎮台の整備に専念した。
この時期、西郷は政府に諸事不満で、大将になった明治六年の十月、にわかに辞表を出し、たれにも告げずに国もとに帰った。
政府はこの維新最大の功労者の退隠に狼狽した。とりあえず、西郷における参議・近衛都督の職についての辞表は受理したものの、陸軍大将職の返上については「旧の如く」として受理せず、郷里に帰った西郷に対し、陸軍大将の給料を送りつづけた。
西郷はこの給料を私学校設立にあてたばかりか、のち西南戦争で反乱軍の首かい魁になったとき、陸軍大将の軍服を着て軍を進めた。統帥という立場からみれば、これほど珍妙なことはなかった。
西郷の帰山の報がつたわるや、少将桐野、同篠原国幹以下薩摩系の将校のほとんどが辞表を出し、土佐系の一部も雷同した。その数は、百数十人にのぼった。
辞職者たちは大挙営門を出るとき、営門わきの池に帽子(帽子のてっぺんが赤かった)をほうりこんだ。天皇統帥権など、あったものではなかった。
軍人は兵器を擁している。自然、このため、軍人が政治に関与すべきでないことは、先進国では常識だった。このことについて明快な思想をもっていたのは、長州出身の元勲木戸馨だけだったかもしれない。「元来、士官藁や餓饗申候は・国之職也・幾之恥也」、さらに、「兵隊廟議を論じ、譲に辞表を出」したことは国のみだれであるとも書いた。
結局、統帥のみだれが、明治十年(一八七七年)の西南戦争という未曾有の内乱をひきおこした。
そのみだれは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した。
昭和陸軍軍閥は、昭和六、七年以後暴発をつづけ、ついに国をほろぼしたが、その出発は明治初年の薩摩系近衛兵の政治化にあったといっていい。

なお、明治二十二年(一八八九年)に発布された憲法にも、天皇が陸海軍を統帥するという一条がもうけられた。これはたいていの国の元首の権能とかわらない。
ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。
すくなくとも、明治二十年以後、明治時代いっぱいは、統帥権が他の国家機能(政府や議会)から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。
統帥権には、
「帷あく上奏」
という特権が統帥機関(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)にあたえられていた。
帷あくとは、『韓非子』にも出てくる古い漢語で、野戦用のテントのことをいう。統帥に関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏するということである。
参謀本部制は、元来、ドイツの制度である。それをまねて日本に設けたのは山県有朋で、明治十一年(一八七八年)に発足した。発足早々、ドイツ風に帷握上奏権も設けられた。
作戦は機密を要する。いちいち政府や議会に漏らすわけにもいかないからこれも妥当な権能といっていい。
ただ、この権能までが、昭和になると、平時の軍備についても適用されるという拡大解釈がなされるようになった。
首相浜口雄幸が、そのために右翼のテロに遭った。
浜口は財政家で、重厚かつ清廉な人格をもち、その魁偉な容貌から"ライオン宰相"などといわれた。かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和五年(一九三〇年)四月、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。右翼や野党の政友会は浜口を、
統帥権干犯」
として糾弾した。
干犯などという酒精分のつよいことばは、法律用語にはない。統帥権に関してのみ、この異常なことばがつかわれたこと自体、昭和軍人が規定した統帥権の不安定さと、かれらの"射狼"としての気勢いをよくあらわしている。
干犯ということばは、右翼の北一輝が造語したといわれている(ただし、明治十五年の陸軍省達の第十六号に"抵抗干犯"という用例がある。漢文の古典語にはない)。
浜口はこのとしの十一月十四日、東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。むろん、殺された"統帥権干犯者"が、統帥権主義者よりも、はるかに愛国者であったことはいうまでもない。
以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。
このころから、統帥権は、無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。さらには、三権からの容啄もゆるさなかった。もう一ついえば国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷握上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。となれば、日本国の胎内にべつの国家統帥権日本−ができたともいえる。
しかも統帥機能の長(たとえば参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。
である以上、統帥機関は、なにをやろうと自由になった。満洲事変、日中事変、ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった。それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。"干犯"になるからである。
統帥権憲法上の解釈については、大正末年ごろから、議会その他ですこしばかりは論議された。
が、十分に論議がおこなわれていないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十年(一九三五年)の美濃部事件によるといっていい。憲法学者美濃部達吉が"天皇機関説"の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。
美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。
それが、議会で否定(議会が否定するなど滑稽なことだが)されることによって、以後、敗戦まで日本は"統帥権"国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない。