中島鉄蔵を「統帥権干犯」であると叱責する

板垣征四朗は満州事変で名を上げたが、その後の戦績は必ずしも良好ではなかった。
 その最大の理由はおそらく参謀に恵まれなかったことであろう。彼の下には参謀として田中隆吉がいたが、その田中は1936年11月に内モンゴル独立指導者の徳王(とくおう)をそそのかして綏遠(すいえん)省に侵入するが、逆に綏遠省主席の傅作儀(ふさくぎ)が率いる中国軍に粉砕されている。(綏遠事件)
 それでも板垣は1937年に第五師団の師団長に昇進するが、この時、参謀としてついたのは辻正信というパラノイアチックな「作戦の天才」である。
 板垣は近衛文麿の強硬声明と増派をうけて、「北支においてはおおむね綏遠―太原―石家荘―済南―青島の線を占め、ここに包合する資源を獲得し、そこに住む一億民衆を同僚として新北支政権を結成するを可とす」という意見を、私信として多田駿(参謀次長)・石原莞爾参謀本部作戦部長)・寺内寿一(北支那方面軍司令官)の3人に発信している。 華北分離を目指す板垣は手始めに東条英機の東条兵団(関東軍が派遣した3個旅団)とともに大原を目指したが、平型関を前にして中国軍の激しい抵抗に遭遇して進軍が停滞した。
 この時、増援を率いてきた傅作義指揮のもと、平型関正面の中国軍は陣前逆襲を行い、第五師団の三浦支隊は包囲された。これに呼応して出撃した中国共産党八路軍は、第5師団の背後に回って第五師団の輜重部隊を待ち伏せ攻撃した。襲撃されたのは兵站自動車中隊と歩兵第21連隊で、山間隘路の別地点でほぼ同時に全滅状態となった。補給部隊が全滅したこともあり、三浦支隊では弾薬が底を突いてしまった。
 傅作義は八路軍との連繋も良好だったので他の国民党系の将軍たちからさえも「七路半軍」と揶揄されていたがこの戦闘から日本軍が学ばなければならないことは多かったはずである。第一にロジスティックス(兵站)の重要性である。ロジスティクスが機能しなければ戦闘能力は喪失するということである。第二に、この時日本軍ははじめて中国共産党八路軍の挑戦を受けたのだし、その戦闘方式も彼らの得意とする狭隘地での待ち伏せ攻撃という遊撃戦の典型的な例であったので、日本軍はこれから多くの教訓を導き出すべきだった。第三に、日本軍は中国軍は弱いとあなどっていたが、傅作義のような戦上手が構えて(逃げることなく)戦いに挑んできた時には、互角、もしくは、それ以上の戦いをされ、それに比例して自軍の死傷者が激増するということである。第四に、9月8日夜に山西省の陽高を察哈爾派遣兵団(東条兵団)の本多旅団が南城門から、篠原旅団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したが、強引な攻撃方法だった事や中国軍守備兵の猛抵抗で140人ほどの死傷者を出す。頑強な敵の抵抗で多数の死傷者が発生したことで激高した現地部隊が敵愾心のあまり、戦闘終了後、日本軍は老幼を問わず城内の男性を捕縛し、機銃掃射を浴びせて殺害した事件が起きており、軍紀を厳格に保持しなければ住民の無差別殺戮を引き起こしかねない体質を日本軍は持っていたことを自覚すべきだった。
 しかし、板垣師団は何も学ばなかった。
 特に、参謀の辻政信は第五師団と関東軍・北支那方面軍との連絡に飛び回り、陸軍中央や北支那方面軍司令官・参謀長の意向に反して、山西作戦の強行を根回して、板垣師団は関東軍とともに独断で山西省に侵攻した。、師団長の板垣は辻参謀のヨタ話を真に受けていたために「一ケ師団あれば山西は片附け得る」と楽観的だったというが、中国軍は、太原防衛のため約8万人の兵力を忻口鎮に集結させており、険しい地形を利用して堅固な防御陣地を築いて日本軍を待ちかまえていた。少ない兵力で準備周到に布陣を引いている敵の中に無謀にも飛び込んでいった板垣師団はたちまち窮地に陥った。この戦いでの板垣師団(混成第15旅団などの配属部隊を含む)の戦死者は1651人、負傷者4594人だった。板垣師団の窮地を救ってくれたのは平漢線方面(第一軍)と津浦線方面(第二軍)から南進してきた北支軍だった。
 日本軍の太原攻略の華は、山西作戦を強引に進めた板垣将軍に持たせることになったが、太原城を守っていたのはあの傅作義だった。板垣は軍使を派遣して傅作義に開城・降伏を勧告した。しかし城内の傅作義は降伏を拒絶した。それで第5師団は11月8日午前8時、総攻撃を開始して城内に突入した。守備軍は頑強に抵抗し、ここでも激しい市街戦が展開された。傅作義はわずかに残った守備軍2000人を率いて日本軍の包囲を突破して撤退、翌11月9日、ようやく太原は陥落した。
 板垣征四朗はその後、近衛内閣の成立とともに陸軍大臣となるが、陸軍大臣の職は板垣にとってあまり心地のよい職ではなかった。彼は参内するたびに昭和天皇から「お前のような頭の悪いヤツは見たことがない」等の陰湿なイジメにあっていた。
 最近発表された昭和天皇の侍従であった小倉庫次の日記が発表されたが、その中にも、昭和14年(1939)7月5日、「(板垣が)陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何どうするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず」という記述がある。
 もちろん昭和天皇の怒りは時期的にもノモンハン事件に関わるものであったと思われる。
 モンゴルと“満州国”の国境付近のハルハ河付近ではソ連と“満州国”双方の言い分に食い違いがあり(日本側はハルハ河を国境と主張し、モンゴル・ソ連側はハルハ河東部を含む地域を国境と主張してきた)ときどき日本軍とソ連軍の衝突が起きたが、1939年の4月に関東軍参謀となっていた辻政信が起案した「満ソ国境紛争処理要綱」を関東軍で決定した(この案を本当に関東軍司令官が決裁したかどうかは不明)。これは以前の「侵されても侵さず」という方針から「侵犯に対しては断乎徹底的に懲らしめる」方針への変更をともなっており関東軍ソ連軍の軍事衝突は避けられない見通しとなっていた。
 それが現実となったのは5月11日に国境(もちろん日本側が主張する国境線)を越えてパトロールしていたモンゴル軍騎兵を関東軍が攻撃してからである。
 関東軍ではその後もモンゴル軍がハルハ河の東部へ進出してきたので、関東軍は山県支隊(およそ2000人)を編成してハルハ河東部へ派遣した。山県支隊はソ連軍の重砲と戦車によって包囲攻撃され、撤退を余儀なくされた。
 関東軍では磯谷廉介参謀長が反対したが、辻政信外蒙古のタムスク航空基地の空爆と第23師団(戦車約70両、航空機約180機、兵員約1万5千人)の出動を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻政信はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権(せんけん)の罪に該当する重罪であった。
 6月27日の関東軍の独断で行ったタムスク爆撃に驚いた昭和天皇は参謀次長の中島鉄蔵を「統帥権干犯」であると叱責するとともに、6月29日には「国境が不明瞭な地方と避遠の国境は厳守しない」(つまり国境が不明瞭な地域での戦闘は控えるように)と命令変更し、それでことは終わったと思っていた。
 しかし軍中央では参謀本部の稲田正純作戦課長が磯谷廉介参謀長の派兵反対論を支持すべきであると主張したが板垣征四朗の「一個師団ぐらいいちいちやかましくいわないで、現地にまかせたらいいではないか」という言葉で結局、辻政信の独断専行を許した。(板垣は辻政信の処分を求める稲田に対しても「あいつはそんなに大物じゃない」という理由で処分に反対している)
 関東軍の攻撃は7月2日の夜襲からに始まったが、火力に劣る関東軍は分断され、大きな損害を出して3日にはハルハ河の西岸に敗退させられてしまった。以後、ハルハ河を挟んで両軍は日々兵力を損耗する膠着状態に陥った。
 通常はこれで紛争は双方痛み分けということで紛争は下火になっていくはずなのだが、この時日本の背後で世界史は大きく動き出していた。
 ユーラシア大陸の反対側ではドイツのヒトラーポーランド侵攻の決意を固めていた。もちろんそれは「東方」(ソ連)への足がかりを築くためであった。近い将来ソ連を攻略するためにはポーランドを手に入れなければならないが、ドイツがポーランドを侵略すればドイツはイギリス・フランスと戦争になり第二次世界大戦になることは間違いのないことであったが、それでもポーランドに侵攻することを決意したヒトラースターリンにドイツとソ連によるポーランド分割を呼びかける。ドイツのヒトラー政権に脅威を感じていたスターリンヒトラーと手を結ぶことによってドイツのソ連侵略を防止できると考え、両者は急速に接近していた。
 しかし、ソ連にとってドイツとともにポーランドを侵略するためには、「後顧の憂い」を断ち切る必要があった。ソ連にとっての「後顧の憂い」とはいうまでもなくの日本軍国主義の脅威である。もしソ連がドイツとともにポーランドに攻め込んだ時、日本軍国主義に背後を突かれたら、ソ連は二正面作戦を強要されることになり、スターリンにとってこれはどうしても避けたい事態であった。
 そこでスターリンノモンハンで乾坤一擲の大勝負に出ることにしたのである。
 8月に入ってソ連軍は歩兵と火砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意して大攻勢をかけてきた。ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、日本軍を全面包囲しようとするものであったが、結果はソ連軍の作戦通りことが進み、23個師団は各地で分断され壊滅的な被害を受け、日本軍はソ連側が主張する国境線まで押し戻されてしまった。
 ノモンハン事件で敗北したのはどちらであるかはまったく明確であるが、最近になってソ連の戦死者が2万人近くとソ連軍の方が日本側(1万9千人)よりも戦死者が多かったことから日本が勝っていたというよく分からない見解が広がっている。しかし戦争は死傷者の多少をめぐって行われるスポーツではないのだし、スターリンはいくら死傷者が出ようが必要なら兵員を増派して、ノモンハンで日本軍を壊滅させる決意と余力を持っていた。
 これに対して、血迷った辻政信関東軍の全兵力を動員してソ連と決戦に望む計画を立てたが、昭和天皇に叱責された中島鉄蔵参謀次長は急遽、新京に乗り込み、関東軍に攻撃の中止と兵力の撤退を強く求め、戦闘の継続を主張する関東軍司令官、参謀長、主要参謀を罷免した。
 ここでも辻政信ノモンハン戦で日本は負けていなかったと主張していた。彼は本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったというが、23師団を壊滅させられて関東軍には増派するその余力はなかったのである。
 関東軍の他の部隊は別に遊んでいるわけではなかった。“満州”では1935年以降、東北地方を中心にして各地で抗日義勇軍が編成されており、36年にはそれらの部隊を再編成して東北抗日連合軍(第1路軍、楊靖宇 第2路軍、周保中 第3路軍、李兆麟)が成立しており、ピーク時には5万人の兵力を擁して満州の北東部で遊撃戦を展開していた。
 特に、関東軍は中国人に信望が厚かった第1路軍の楊靖宇を目の敵にしており、「東辺道治安粛正計画」を策定し、1939年9月に7万5千人を動員して第1路軍の全面的討伐を行おうとしていた。そういう時にノモンハンに振り向ける兵力などあるはずもなかった。
 このノモンハン事件の推移をうけて8月23日にはドイツとソ連の間に独ソ不可侵条約(ドイツとソ連によるポーランドの分割占領を秘密条項として含む)が締結され、9月1日にはドイツ軍が国境を越えてポーランドになだれ込んでいった(第二次世界大戦勃発)。
 この独ソ不可侵条約は時の平沼内閣にパニックを引き起こさせる。すなわち、それまで日本の外交はドイツと結んでソ連を排撃するという政策であったが、そのドイツとソ連が手を結ぶというのであるから、どうしたらよいか途方に暮れてしまったのである。それで平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職してしまった。