権田直助先生伝

権田直助先生伝
       倒幕の実際運動
 慶応三年十月十四日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還した。慶喜大政奉還土佐藩の公議政体論を受け入れたもので、その後における政治的企図はもっていた。一方薩長は徹底的に幕府を壊滅すべく、挙兵討幕の密勅を盾として、軍事態勢の整うのを待って、十二月九日の政変が断行された。薩摩をはじめとした五藩の兵が禁門を警備し、佐幕的勢力を排除して、王政復古と摂関・幕府の廃止が宣言された。その後開催の小御所会議において「欠席裁判」で慶喜には辞官、納地を命ずることが決定された。
 当時の二条城にあって、このクーデターの報に接した慶喜は、はなはだしく憤激し、一時は出兵を考えたが、熟慮の上、京都に滞在することの不利を察し、大阪城に移入なお江戸から軍隊、軍艦を大阪に集結させた。
 この間、岩倉具視西郷隆盛は、倒幕の端緒をつかむ手段として、江戸三田の薩摩屋敷に勤王浪士を集め、江戸をはじめ関東各地の治安を攪乱、穂川旗本を挑発して、江戸進駐の口実をつくるべく策し、ひそかに志士、浪士の徴募がおこなわれた。本町毛呂本郷の権田直助に対しても、西郷隆盛は同志伊牟田尚平を密使として、急ぎ江戸に入ることを促している。
 直助は、医道のことで数度京都へ上り、公卿の間にも面識があり、なお国学の造詣者として王政復古を念じ、門人達をも指導していた。さきの文久三年二月、足利三代の木像梟首事件で逮捕された浪士九人のうち二人は直助の門人であり、その年八月、大和天誅組の挙兵があり、十津川の戦に敗れ、ようやく脱出した三河の志士阪木下枝は逃れて直助の家にかくまわれていた。直助は「今こそ国の大患を療すべし」と医業をなげうって薩摩屋敷に入り、変名して苅田積穂と名のった。
 薩邸に集まった浪士は総勢三百人を越え、名づけて糾合隊という。
  総裁 相楽総、三 (本名 小島四郎 旗本酒井錦之助を浪人)
  副総裁  水 原 源一郎   (本名  落 合 源一郎  武州多摩郡駒木野)
  大監察  苅 田 積 穂   (本名  権 田 直 助  武州入間郡毛呂本郷)
 江戸薩摩屋敷に入った直助は、相楽総三、水原源一郎等とともに西郷隆盛、岩下方平、伊牟田尚平と前々からの計画に基づき、実行の方略を樹てた。それは三方から江戸の幕府を脅かそうとするもので、一つは野州に挙兵して東北への口路を押さえ、一つは甲府城を攻略して甲信方面の口許を押さえ、一つは相州方面を襲撃して東海道筋を押え、江戸に残ったものは市中に出没横行して、幕府に刺激を与えるように図ったのである。この実行によって幕府を挑発し、討幕の機会も促進されるとしたのであった。先ず野州挙兵の一隊は慶応三年十一月下旬、江戸を発ち野州出流山に拠り隊長竹内啓(本名 小川節斉、旧人西村竹内出身)は常州野州の有志を糾合すべく、檄文を配布して気勢を示し、攻撃精神をもって立ち向かったが、幕府が編成した農兵のために、あえなく敗れる結果となった。隊長竹内啓は終に捕えられ下総国松戸において処刑された。
 一方薩邸にいた直助は竹内啓の野州挙兵に当り、緊密な連絡を取り、前橋藩士志賀敬内と結び、上州勢田郡橘山に拠兵、竹内の挙兵と鼎立相呼応を画策中、竹内啓の惨敗を知りやむなく薩邸に引き上げた。直助は竹内の死をいたく悲しみ、積年の深い交情を思い哀傷にたえず、後になって明治三年、松戸に碑を建て、竹内啓の事績を石に録している。
 甲府城攻撃に向かった一隊は、十二月中旬江戸を発ったが、途中幕兵の襲撃に遭い、且附をはたさず失敗した。また相州に向かった一隊は十二月十五日、厚木に現われその足で大久保陣屋を夜襲し、武器、武具を奪い、陣屋の武士以下を死傷させたのである。
 この薩邸を中心に事を起こぞ昇る計画を糾合隊が委託されるに就いては、その初め西郷・岩下・伊牟田等薩藩士と謀議の折、西郷は多数の兵員を派遣するから、十分各所に活動せられたいとのことであっ、た。直助はじめ幹部はそのつもりで計画を立て、四方に活動を開始したのである。しかし形勢は次第に切迫してわずかの兵数では到底有力な活動はできない、そればかりか、時によっては撃滅される恐れさえあった。
 直助は、約束した兵員が送られぬため、せんかたな宝慶応三年十二月二十日、ひそかに薩邸を脱し、路を木曾街道に取り、中津川にて従者を返し、単身京都へ上り、岩下方平と兵員派遣について種々打合せをなし周旋した。ところが直助の奔走中の同月二十二日、江戸城二の丸に火災が起り、薩邸浪士の所為と言われ、また幕府屯所の襲撃も再度起った。これちのことは特に幕府を刺激し、幕府は二十五日の天明を期し、庄内藩を主力とし、上ノ山・前橋藩等援護のもとに薩邸を包囲し、浪人の引き渡しを強要した。
しかし薩藩篠崎彦十郎はその要求を拒否した。交渉決裂、幕府方は撃ち入れを号令し、東・北・西の三方よリ邸内に押し寄せ、焼打ちを行なった。当時薩邸には伊牟田尚平・篠崎彦十郎・相楽総三等幹部以下二百余名のみであった。糾合隊は前述のとおり各地に出動中で、薩邸には一部しか戻ってはいない。そこで先ず邸内より烈しく抵抗した上、脱出することに決し、邸外に突出し、強力に包囲の一角を崩して品川に走り、停泊中の薩蕃船翔鳳丸に投じた。翔鳳丸は、幕艦回天外二隻の追撃を受けながらも西航をつづけ、京都に着くことを得た。この兵火で薩摩屋敷は灰燼に帰し、浪士隊も壊滅した。
 直助は、この騒動がかくも早く起こるとは知らず、十二月二十八日、岩下方平を訪ねたとき、すでに急報を手にした岩下から「十二月二十五日の払暁幕兵が江戸薩邸を焼打ちした。これでいよいよ戦争の運びに立ち至った。これは貴君の御尽力に因る」と話されたので直助は、それは一体何方から聞かれたと尋ねると「我が藩の間諜よりの密報である」と言われた。直助もその画策の適中に手を打って悦んだという。また西郷に面会した時も、懇に直助をいたわって「貴君達の御尽力によって事の成就は近き中にあろう」と深く礼を述べたといわれる。かくして西郷の予期した通り、江戸における挑戦的行動が幕府方に激憤を与え、ついに之が動機となつ浜慶応四年正月三日、鳥羽伏見の戦となった。
 幕軍敗れて一路大阪に退き、翌日薩長軍は錦旗を奉じて攻撃、六日の深夜徳川慶喜大阪城を脱出海路江戸へ逃れた。つづいて朝廷から慶喜征討の大号令が発せられ、正月九日東山道の先鋒が出発、ついで東海道を進む織仁親王を大総督とする東征軍本隊の進発ももはや近きに迫った。
 直助は正月四日、征討大将軍嘉彰親王に供奉して大阪に赴き、ついで四国・中国の鎮撫使四條隆認、錦旗奉行五条為栄の諸卿を輔けて姫路に入り、藩主酒井雅楽頭と折衝して其の城を収め、その先は鎮撫を必要とせず、安定とみて一先ず大阪へ引き返し、更に京都の五条家へ帰った。
 岩倉具視の内命により、直助が再び関東内情探索を命ぜられたの磯五条家へ帰った直後であった。これは大総督宮の進発が迫っていたからである。直助と落合源一郎は二月十日京都を出発した。直助が関東探索を引きうけるにつき同志の一回目を揃えて、それは命知らずだと言って諌めた。権田直助と落合源一郎とは、去年の冬江戸薩摩屋敷の浪士の頭領であるから、幕臣の眼についたら確かに斬られる。殊に落合の巨眼と権田の白髪とは特徴と見られて誤魔化しができないからこの際見合わすべきだ。江戸に入っても三日と命はもつまいというのである。しかし直助はただ笑っているだけできかばこそ落合と共に五条家を辞し、早尺にして出発した。 (これは五條家が信州堀家の重臣を召し其臣たる名を以てするよう内命があった)。早駕籠によって木曾贄川駅に至り、ここから分岐して桜沢山道を経て木曾に出、種々用意を整え、再び早駕籠により二十二日板橋に着き、その足で巣鴨に入ることができた。数日東奔西走し、早急に事情を探索して一般の状況をくわしくつかみ、二十五日には身の危険も感じ江戸を去った。中仙道を京都へ向かい、三月三日には京都へ無事に還ることができて、使命をはたしたのである。直助の日記「東行日記」をみると次の様になっている。

参考並びに引用の文献
徳育資料権田直助編 埼玉県教育会
国学大系権田直助集 地平社版
神道の躬行春権田直助翁 門人 神崎四郎
権田直助翁略伝 大山阿夫利神社
名越舎年譜録 門人 宮西仲友・紫藤宣安
権閏直助伝 毛呂山町教育委員会
史談権田直助 小生夢坊
相楽総三とその同志 長谷川 伸
名越舎翁家集 内海景弓
神教歌譜 大山阿夫利神社
郷土資料 平山庫治・伊藤英次郎所蔵

毛呂山町教育委員会
毛呂山町町史編纂委員会