小御所会議

慶喜大政奉還にも動ぜず、西郷、大久保らは最後の「賊臣慶喜を討てという密勅」のカードを使って兵を集め、力によるクーデターの謀略に望みを賭ける。不意をつかれた宮門警備の会津、桑名両藩はなすすべもなく二条城に退出している。ここに徳川に変わり新たに総裁、議定、参与の三職がおかれ薩長連合による政府が誕生する。薩長政府は、夜に入って政府最初の小御所会議が開かれたのである。
この会議で、慶喜は将軍職を辞任したとはいえ、徳川家は経済的、軍事的に八百万石という途方もない、日本一の実力をもっていたので、無位無官のまま慶喜から領土を返上させ、権力を奪い去りたかった。そこで徳川家が怒って戦いを仕掛けるよう仕向け、先方からの開戦を口実に、錦の御旗をもって穏健派の諸侯を取り込み、公然と武力でたたき潰そうと計画を練った。ところが紛糾どころか山内容堂の佐幕論の正論に三条、岩倉両公も、木戸、大久保の諸傑も、返す言葉も窮することなった。とうとう岩倉公が廟議にはあまり干与しなかった西郷を呼び相談する。すると西郷は、懐中から短刀をちらりと出して幕府でも土州は助けると言うなら短刀の外には致し方ないと示す。そこで岩倉公は、この決心では血を流さなければ収まらないことを芸州の世子浅野長勲公に告げ、公から家臣の辻将元に命じて後藤象二郎に謀らせ、後藤から容堂侯に説かせたので、衆議に同意した。そして、辞官、納地を一方的に命ずる決議を採択する。慶喜会津藩松平容保桑名藩松平定敬をニ条城に呼びつけて他出を禁じ、衝突を未然に阻止している。さらに感情にかられて騒ぎたてる幕軍兵力2万3千余を、京都のニ条城から大坂城に移して暴発を回避する。松平春嶽伊達宗城らによる努力により、23日に下された三職会議の沙汰書は、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正された。また、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなる。旧幕府の失政を糾弾し慶喜を政治過程から完全に排除するという大久保や西郷の構想は破綻し、それどころか慶喜の議定就任もほぼ確定した。慶喜は28日に下坂した春嶽に請書を提出し、 あとは慶喜の上洛のみとなった。