太平洋戦争

walk1000help_1203さん

2014/12/315:37:29

>なぜ太平洋戦争が始まったのでしょうか?

海軍は最初から反対で、山本元帥も「一年間はどうにかできるが後は保証できない」と戦前からいっていたほどで、ではどうして負けるとわかりながら、米英を相手にするにいたったかといえば、シナ事変において道理の立たぬ苦しまぎれから、ジリ貧になるよりいさざよくやろうという単純な気持ちのもの、ドイツが必らず勝つと思っていたもの、米国は個人主義だから長期戦はできぬと思っていたもの等の綜合された室気に躍らされた東條を囲繞する政治軍人の名誉心と野望から起ったものである。

参考

「日本がバスに乗り遅れるといつまでも小日本で終わる。大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失う」(日米交渉 補佐官の秘録 元海軍少将横山一郎)

上記は1941年3月頃、華府で開かれた在米州海軍武官会議の時、中央から来た軍令部第五課長山口文次郎大佐が語ったものです。


アメリカとの開戦直前の1941年11月29日、昭和天皇重臣8人に意見を求めたのに対して、米内は「俗語を使いまして恐れいりますが、ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないよう十分にご注意願いたいと思います」とだけ発言している。

昭和16年(1941)6月3日の独ソ戦の勃発を受けるかたちで7月2日に御前会議が行わ れる。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオスカンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦 するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有 利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には了承される。又海軍中央の強硬派の基本には、英米可分論が あった。(『昭和史が面白い』P105)

南方に進出して、イギリス・オランダの植民地を攻撃しても、問題はアジアの事情でアメリカは出て来ない、アメリカ と戦争する気持ちは無いのだからアメリカと戦争にはならない、との都合の良い認識で希望・願望が最終的な判断になった。この判断の根拠はむろんドイツの戦 争の行方だが、駐独大使・大島浩などは殆どヒトラー政権の勝利を信じて疑わなかったのが現実。このときの国策要綱は「南方進出に歩を進め又情勢の推移に応 じ北方問題を解決す」とあり、初めて「対英米戦争を辞せず」の文言が追加される。ただしそのくらいの気構えでとの意味だった。参謀本部の強硬な主張で南方 進出と共に「関東軍特別演習」(関特演)の実施を決め、満洲方面に大量の人員と武器・物資を動員する。(『日本の歴史25』P222)


英米と戦を交うる覚悟を以て7月2日の御前会議で南部仏印の進駐を決定します。
 当時の外務次官大橋忠一氏は、この決定に対して非常に憂慮します。なぜなら、この決定は当然日本と英米との問に好むと好まぎるにおいて、戦争を捲き起す結果を生ずるからです。
 大本営は外務省に対して.進駄に関して仏印当局との交渉の開始を要求します。当時松岡氏は病気引き籠り中であったので、交渉に当ったのは大橋次官です。交渉に先だし大橋氏は大本営当局に対し

 「南部仏時に進駐することは、米英に対し開戦を覚悟せねばならぬ。その覚悟と準備があるのか」と反問します。

大本営当局はこれに対し

 「独逸と死闘を繰り返しつつある英国は決して進駐に対し挑戦はせぬ。進駐の結果は恐らくシンガポールの防御強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」楽観的な態度であった。
                                 元陸軍少将 田中隆吉