太平洋戦争の開始

kouyouchinbutaiさん

2012/1/2901:14:56
>・・・・・それでもアメリカは石油を始め重要戦略物資を日本に供給していました。このどこが「アメリカの経済圧迫」でしょうね。しかし日本はアメリカの警告をバカにして更に南部仏印に侵略を拡大、ここでアメリカの我慢が切れて対日石油禁輸に踏み切りました。..-
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北部仏印進駐には、英米両国も、なんらかの干渉を試みなかったのが、日本が更に進んで南部仏印に手を延ばさんとする気配のあるのを知って、クレーギー、グレー両大使を通じて南部仏印を占領するならば重大なる結果を招来するであろうと警告を与えています。では、なぜ、「日本はアメリカの警告をバカにして更に南部仏印に侵略を拡大」したのかというと、石油は、南部仏印に進駐するまで、アメリカから、供給されていましたが、ゴムは英独開戦以来、英米に送られ、日本に輸入される量は、減少の一途を辿っていました。
昭和15年の秋以降総て、英米に送られて、日本には輸入されなくなってしまいます。ゴムは飛行機や自動車などの生産には不可欠なもので、生産そのものを不可能にします。南部仏印には、当時年産十万トンのゴムがありました。
 大本営は外務省に対して、南部進駐に対して仏印当局との交渉の開始を要求します。当時、松岡は病気引き籠り中で、交渉の衝に当ったのは大橋次官です。交渉開始に先立ち、大橋氏は大本営当局に対し「南部仏印に進駐することは、米英に対し開戦を覚悟せねばならぬ。その覚悟と準備があるのか」と反問します。大本営当局は之に対し「独過と死闘を繰り返しつつある英国は決して進駐に対し挑戦ほせぬ。進駐の結果は恐らくシンガポールの防備強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」という楽観的な態度でした。大橋は松岡に代って進駐に関する交渉を開始します。仏印当局は直ちに之に応じ、昭和16年7月下旬、陸海軍はサイゴソとカムラン湾に進入します。米英和蘭三国は之に対する報復手段として経済断交と在外資産凍結という予告通りの強硬なる手段にでます。つまり、ゴムを確保した代償が石油資源の枯渇をもらしたと言えます。

アメリカも戦争が迫ってくるにつけてゴムの備蓄が乏しくなってきていた。ルーズベルトからアメリカの合成ゴム開発計画の監督を命じられたジェシー・ジョーンズは、戦争勃発時のアメリカのゴム不足は国際ゴム規制委員会(イギリス管理下の国際的規制)に責任があると非難している。アメリカは生ゴムの90%をマレ−やオランダ領東インドにあおいでいたからです。

マレーやビルマ、オランダ領東インドのゴムはイギリスが戦争を継続していくうえで不可欠な原料資源をアメリカに売ることによって、アメリカから物を買いいれるのに絶対必要なドルを手に入れることができたのです。1941年7月(昭和16年)のイギリス外務省の推定では、イギリスのゴムの保有量は数カ月分で一方、アメリカの場合、90%以上を日本軍の脅威にさらされている地域にあおいでいた。そして南部仏印には年産10万トンのゴムがあった。このゴムは昭和15年の秋以来、すべて英米に送られて日本には輸出せられなかった。


参考

南部仏印進駐 準備陣
そして一方では、北部仏印進駐をしたけれども、仏印の資源は全くとれない。ゴムなどもほんの申しわけぐらいは来たかもしれないが、何とか、理由をつけて、ほとんどよこさない。要するに、仏印はまるきり言うことを聞かないということである。尻尾に蠅がとまったぐらいのことで、仏印を思うままにしようとしてもむりだ。どうしても南部仏印に進駐しなければいかん、ということが起こって来た。
それから、海軍としては、いざ南方へ出るという場合には、なんとしても南部仏印に基地を持たなければどうにもならないので、石川軍務課長は非常な積極論者で、盛んに南部仏印進駐をいいます。陸軍も無論、南部仏印進駐はやらねばならない。それは海軍ばかりでなく、陸軍としても対ソ戦をやるとすれば自給自足圏を確保し、また内線作戦のふところを広くするという意味において、南部仏印までは、どうしても押えておかなければならない。 
われわれは南部仏印までを小東亜共栄圏といい、蘭印を含んで大東亜共栄圏といっていた。対ソ戦をやるとすれば、どうしても小東亜共栄圏を確保しなければならない。
 御前会議での意見は、いろいろ違うとはいいながら、前に述べたとおり決まった。陸軍はあれを準備陣といっている。北へでも南へでも行ける姿勢をもっていることを準備陣という。7月2日の御前会議のときの陸軍の大勢は、この準備陣なのである。

(軍務局長の賭け 佐藤賢了P224)


東條英機東京裁判宣誓供述書
一九三九年(昭和十四年)七月二十六日アメリカのわが国との通商航海条約廃棄通告以来米国のわが国に対する経済圧迫は日々にはなはだしきを加えております。その事実中、わずかばかりを記憶により陳述いたしますれば、 一九四〇年(昭和十五年)七月にはルーズベルト大統領は屑鉄、石油等を禁 輸品日に追加する旨を発表いたしました。米国政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用ガソリンの西半球外への輸出禁止を行う旨を発表いたして おります。同年十月初旬にはルーズベルト大統領は屑鉄の輸出制限令を発しました。以上のうち特に屑鉄のわが国えの輸出制限は当時の鉄材不足の状態とわが国に行われた製鉄方法にかんがみわが朝野に重大な衝撃を与えたので あります。
また日本の生存に必要なる米およびゴムをタイ・インドネシアの地区において買取ることの妨害が行われたのであります。日本の食糧事情としては当時(一九四一年頃にあつては)毎年約百五十万トン(日本の量目にて九百万石)の米を仏印および泰より輸入する必要がありました。これらの事情のため日仏印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に経済協定を結んで七十万トンの米の入手を契約したのでありましたが仏印は契約成立後一ケ月を経 過せざる六月に協定に基く同月分契約量十万トンを五万トンに半減方申出て 来ました。日本としては止むなくこれを承諾しましたところ七、八月分につ いてもまた契約量の半減を申出でるという始末であります。泰においては英 国は一九四〇年(昭和十五年)未に泰ライス会社にたいしてシンガポール向け泰米六十万トンという大量の発注をなし日本が泰における米の取得を妨害いたしました(ゴムについては仏印のゴムの年産は約六万トンであります。
その中日本はわずかに一万五千トンを米ドル払いで入手していたのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米国は仏印ハノイ領事にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害し、また、英国はその属領にたいし一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本および円ブロック向けゴムの全面的禁止を行いました。

昭和16年9月29日の木戸日記に下記のような記載がある。
「米国のゴム保有量並に中南米における生産高、及び錫の保有量並に米国が獲得し得る産査方椥下命あり、依って秘書官長より企画院総裁に連絡す」
万能といわれているアメリカも、ゴムと錫だけは、ほかの国に依存していた。このゴムと錫が不十分であるため、アメリカはいま戦争をのぞんでいないとする意見が、政府や軍の内部にあった。少し後のことになるが、来栖三郎大使をアメリカへ急ぎ派遣するとき、時の首相東条英機大将は、アメリカは戦争を望むまいと述べます。こうした情報は、天皇にも達していたと思われる。