>開戦を選んだ内閣を天皇個人の判断で止める事はありませんでした。

それはそうです。陛下が、なぜ日米開戦論者の東条をご採用になったかといえば、呉軍港にいた第六艦隊の一部には、マーシャル群島をへて真珠湾へ出動する命令が発せられていたからです。陛下はこれを承知しており、東条内閣の出現をもって開戦へふみ切ったことを了解していたからです。

参照
10月17日陛下は東条に次のように述べています。
「卿に内閣組織を命ず。憲法の条規を遵守するよう。時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ。なお後刻、海軍大臣を召してこの旨を話すつもりだ」
つまり「際陸海軍はその協力を一層密にする」ように命じたのは、開戦に当っての協力を述べたものです。

>「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」の意味は?
明治天皇が日露開戦に際し戦争に対しての不安を和歌に託して詠んだ句です。翌年、明治天皇は幸運にも、勝利を祝う歌を詠むことができた。


明治憲法が公布されてから、政府と議会が争ったことを勉強しました。不思議なのは内閣総理大臣はどうやって選出されていたかです。

明治憲法では、首相と各大臣の任免については、誰にも、いかなる機関にも、あらかじめ相談する義務はないです。しかし、実際の運営には、明治憲法上に存在しない元老が総理大臣を天皇に推薦して天皇が任命します。元老とは天皇から大きな功労があったものとして信頼をよせる趣旨の勅書を与えられたものに対する世間の呼び名です。明治時代には岩倉、伊藤、山県などの実力者がいたので天皇はロボットたらざるをえなかった。彼らはあるときは天皇の内命や勅令をとおしての統治者、あるときは統帥権者として明治憲法を巧みに使い分けができたのです。ところが昭和天皇の時代になると、岩倉、伊藤、山県などの元老は死んでしまって、日米開戦期になると元老にかわる統合力と指導力をもつものは、統帥権統治権の分立により天皇以外には存在しなくなっていたのです。

参考
10月16日、近衛は辞任します。これは天皇が杉山参謀総長、永野軍令部総長らに推し進められた開戦論を支持したことにより、近衛は天皇の信任がなくなったと悟って、身を退くことになります。

敗戦の色が濃くなったとき、近衛はこのときの天皇について、次のように述べている。
「自分が総理大臣として陛下に、今日、開戦の不利なることを申し上げると、それに賛成されていたのに、明日御前に出ると『昨日あんなにおまえは言っていたが、 それ程心配することはないよ』と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。 又次回はもっと戦争論の方へ寄っておられる。つまり陸海軍の統帥部の人達の意見がはいって、軍のことは総理大臣にはわからない、自分の方がくわしい、という御心持のように思われた。従って統帥について何ら権限のない総理大臣として、 唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない」(富田健治『敗戦日本の内側』)