沖縄戦についてです。軍は初めから、県民の人命の保護という措置を、とらなかったように見えますが、事実でしょうか。サイパンみたいに、住民もろとも玉砕のつもりだったのでしょうか。もし、そうだとしたら、

沖縄県民の犠牲の責任は、現地の牛島、太田司令官にあるのでしょうか。それとも、大本営の責任なのでしょうか。

細川護貞著『情報天皇に達せず』の1944年12月16日条に次の記述が見られる。
「昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より四時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃機銃掃射を受けたり。而して人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里先の山中に避難を命じられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に至るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振舞にて、軍紀は全く乱れ居り、指揮官は長某にて張鼓峯の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦ひをするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと暴言し居る由。島南に入口集り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。しかも着のみ着のままにて、未だに内地よりも補給すること能はず、舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居れりと。来襲鉄器は一千機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。又最近の軍の動向は、レイテに於ても全く自信なく、又内地を各軍管区に分け、夫夫の司令官が知事を兼ねるが如き方法をとらんとしつつあり。又海岸線には防備なく、全部山岳地帯に立てこもる積りの如しと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり竹の戦車等作りありたりと」

この記述は、米軍上陸以前の話しで、上陸開始後には、日本軍が沖縄住民に対する虐殺行為が行われていたとしても怪しむに足るまいと思うが。日本軍は、沖縄県民を準植民地の住民として、軽蔑と不信の目で見ていたので、多くの住民がスパイ容疑によって日本に殺されたのは、日本軍の兵士の胸裡にそのような根強い偏見が潜んでいたからであろうと思う。

沖縄県民の犠牲の責任は、現地の牛島、太田司令官にあるのでしょうか。それとも、大本営の責任なのでしょうか。

 沖縄本島には司令官牛島満中将の主力が第三二軍が配備されていました。兵力は約7万7000人で、装備も劣弱であったそうです。このため牛島司令官は沖縄本島中部にある北・中飛行場の確保を断念して、島の南部で持久戦法をとることとし、早くも4月1日中に米軍に北・中飛行場の占領を許した。

4月2日、梅津参謀総長の戦況上奏の際、天皇は沖縄の敵軍上陸に対し防備の方法は無いのか、敵の上陸を許したのは、敵の輸送船団を沈め得ないからであるのか(大田嘉弘『沖縄作戦の統帥』P401〜402)
と下問した。参謀総長は、
 現地軍も一生懸命に戦って居りますが、この間敵の一部の上陸は、当然考えられる所であり、軍司令官が、之に対し攻撃に出ることも予想せられます。陸海軍共に張り切っておりまする故、今後大いに敵船を沈める段階になり、敵の困難は逐次増大してくることと思います(同前、P402頁)

翌4月3日、天皇は此戦[沖縄戦]が不利になれば陸海軍は国民の信頼を失ひ今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか(戦史叢書82『大本営陸軍部(10)P113』)
梅津参謀総長は、天皇の下問を受けた後、ただちに宮崎作戦部長を呼び、第三二軍に天皇が希望するような作戦指導を加える必要はないか、と指示した。
具体的な作戦は現地軍の判断にまかせるというのが作戦指導の原則であったが、天皇が「何故攻勢に出ぬか」と言った以上、無視するわけにはいかなかった。宮崎部長は迷いつつも、作戦課において起案した攻勢要望電報を決裁した。そして、翌4月4日午後、大本営陸軍部は、第三二軍にたいして、沖縄作戦に対する天皇の「御軫念」(憂慮の念)を伝達するとともに、米軍に占領された北・中飛行場の奪回を要望する以下の要旨の電報を次長名で発電した。
 北・中飛行場の制圧は第三十二軍自体の作戦にも緊要なるは硫黄島最近の戦例に徽するも明らかなり、特に敵の空海基地の設定を破砕するは沖縄方面作戦の根本義のみならず、同方面航空作戦遂行の為にも重大なる意義を有するをもって、これが制圧に関して万全を期せられたし(『沖縄作戦の統帥』P403)。
12日、総攻撃を決行したが、本島の中・南部における持久戦を決め込んでいた第三二軍は混乱し、結局、中途半端な攻勢作戦を行ない大損害を被り、持久戦に転じた。

軍令部総長はこの第三二軍の総攻撃に呼応するために航空総攻撃を行う件について奏上した際に、 陛下から航空部隊だけの総攻撃かとの御下問があった。(戦史叢書93『大本営海軍部・聯合艦隊の』二七票)つまり、天皇が「航空部隊だけの総攻撃か」と下問したということは、天皇に「水上部隊はなにもしないのか」と叱責されたということだから他に使いどころのない大和ほかの艦艇で「海上特攻隊」として作戦に投入することになった。
当時、第五航空艦隊司令長官として航空特攻作戦の指揮をとっていた宇垣中将はこの時ことを次のようの述べている。
 全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無暴の挙と云はずして何ぞや。[中略]
 抑々茲に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ(字垣纏『戦藻錨』P444。4月8日の項)
と言う具合に、大和以下の特攻を天皇の下問が艦艇出撃のきっかけになったことを記している。
4月5日、豊田連合艦隊司令長官は、戦艦大和軽巡矢矧、駆逐艦八隻とからなる海上特攻隊を沖縄突入を命じた。連合艦隊は「指揮下一切の航空戦力を投入し総追撃を試み、特攻につぐ特攻をおこなった。陸海軍あわせて2393機の特攻機が投入されました。しかし米軍の実害は沈没36隻であったが、空母、戦艦、駆逐艦の沈没は1隻もなかったという。