黙殺

ポツダム宣言を黙殺しなければ、原爆投下やシ連参戦は無かったか?
東郷外相は、27日朝参内拝謁してこの宣言について詳細に御明申し上げ、日本としては、これはしばらくこのままにして意思表示せずソ連の態度を見極めたうえ措置することが適当と思考する旨言上した。同日、東郷外相は、六巨頭会議ならびに閣議において同様説明し、また強く主張した。そこで閣議は外相の説を入れて、この宣言を小さくそしてなんら意見を加えずに新聞発表することにした。ところが、軍部はこの書をこのまましておくことは、軍の指揮に関するところ大であるから、政府としてこれを無視すると発表してもらいたいと強く鈴木首相に要求した。そこで鈴木首相はついに軍部の要求をいれた。28日の朝、政府の偽造した宣言文に添え、「政府の返答は黙殺」という記事が出た。当時の日本の新聞は、検閲されていたので、政府の指示に従って、載せたものであったのです。
しかし、それは「われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようと する意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人 に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的 傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想 の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならな い」と述べたくだりと、「日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる」などの字句を削除しながら偽造して、国民に対して政府が発表します。

午後4時鈴木総理は記者会見を開き、連合国の最後通告の件について、予め用意した質問に答えた。一人の記者がポツダム宣言について、首相の発言を求め、首相は「私は三国共同声明は、カイロ宣言の焼直しであると考えている。政府としては、なんらの重大な価値あるものとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである」と記者に語った。それは前日の意見を述べるのを差控えて時間を稼ぎ、ソ連の調停を頼むという閣議の決定と違っていた。そして黙殺という語が英訳され、それが同盟通信社を通じて海外に発信されたという。

当時の書記官長迫水は、「黙殺を無視と解釈するのは大きな間違いであった。実際にはわれわれは、ノーコメントの意味に考えた。戦争中日本国民は英語を使わないように強調せられた。そこで私は英語のノーコメントを思い出せなかった。私はノーコメントに最も近い意味を表わす日本語は黙殺だと思った。そこで私は鈴木総理にこの言葉を使うように助言したのであった」と述べているが、ただの言い訳であろう。

加瀬俊一氏は当時の状況を、次のように書き記している。「一般の感想は、予期よりも遥かに寛大な条件であるということだった。国民は戦争に疲労し、軍部に不満であったから、宣言を密かに指示し始めた。この宣言受話によって、祖国が全滅から免れ、国民が軍部の圧政から解放され、直ちに平和と安穏な生活が回復されるのならば、このくらいの代価は巳むを得ないではないか」 (加瀬俊一「ミズリー号への道程」)

電文では黙殺が「IGNORE(無視する)」ではなく、「REJECT(拒杏する)」と訳され、これが連合国に全く誤った印象を与えたのだという、議論があります。
黙殺とは、黙って知らん顔をしているというのが常識。それを黙殺と口にし、活字にしてしまえば、もうこれは先方に、無視(IGNORM)、拒絶(REJECT)ととられても仕方がない。黙殺という語がどう英訳されようと、首相の発言はその用語と文脈からみて明らかに、最後通告としてのポツダム宣言を軽蔑し、これを無視したという印象を与えるものだった。 鈴木発言は海外ではそう受け取られた。米国政府もそのように考えた。これについてスチムソン米陸軍長官は、次のように書いている。
後日スチムソン陸軍長官は、「7月28日、日本の鈴木首相は、ポツダムからの最後通告を拒否した。……この拒否に会って、わが方は最後通告で述べた内容を実地に示す処置を取るだけとなった。一切のわが軍事力を以て、断乎日本の武力を撃滅し、又本土を完膚なきまでに破壊する外巳むを得ない実情に迫られた。この目的のためには原爆が最も適当な武器であった」と述べている。(ヘンリースチムソン陸軍長官「平時と戦時に服務して」ニューヨーク・ハーバー社、1947七年刊)
 8月6日、最初の原子爆弾が広島に投下された。その数日後に、ソ連の参戦となった。
原爆投下命令が3日前には発していることから、 鈴木首相の黙殺?という言葉を使ったことが、その原因のすべてであったとはいえないが、それは疑いなく、原爆使用の大きな口実を与え、ソ連の日本への宣戦布告の口実となった。