太平洋戦争時の日本軍の戦況虚偽報道は当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?

開戦時はたしかに日本軍が攻勢だったようですが、負けだしてからも国民には勝ち続けていると報道されていたと聞きます。負けだしてからの戦況について、当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?天皇さえも騙されていたのでしょうか?

軍令部作戦課長をつとめた山本親雄も次のように回想している。

  また毎日、第一線部隊からくる戦況報告の電報は、ことごとく陛下のお手許に差し出すばかりでなく、前日の戦況を要約して書類として陛下の御覧にいれるほか[戦況に関し御説明資料のこと]、隔日に軍令部総長が参内して奏上するのが例であった[「戦況に閑し奏上のこと]。だから陛下は命令や指示はもちろんのこと、日々の戦況は手にとるように御承知であり、戦況活発なときは、たびたび侍従武官を通じ尋ねがあったから、不利な戦況が打ち続くような場合、どれほど陛下が御心痛されているか、十分に推察することができたので、作戦担当者として私たちは、まことに恐懼にたえぬしだいであった(大本営海軍部P125)。

内大臣として天皇を補佐した木戸幸一も次のように述べています。

大本営の発表は兎も角、統帥部としては戦況は仮令最悪なものでも包まず又遅滞なく天皇には御報告申上て居ったので、ミッドウェイ海戦に於て我方が航空母艦四隻を失ったことも統帥部は直ちに之を奏上したので、陛下は鮫島[具重・海軍中将]武官に「直ぐに内大臣にも知らせる様に」との御言葉があったとて、同武官は私の室に来られて之を知らせて呉れたのであった。又ガダルカナル島の場合も米軍の反攻上陸の成功、之に対する我軍の三回に亘る総攻撃の失敗、最後に転進の成功と云ふ戦況も其都度陛下には奏上せられて居り、陛下は総て戦況は御承知であった(木戸日記研究会『木戸幸一関係文書』P38)

6月5日、航空母艦四隻を主力とする機動部隊はミッドウェー島を強襲した。木戸は6月8日の日記につぎのように書いている。

10時40分卸召により拝謁、11時40分退下。ミッドウェー附近海戦につき御話あり。航空艦隊の蒙りたる損害誠に甚大にて、宸襟を悩ませられたるはもとよりのことと拝察せるところ、天顔を拝するに、神色自若として、御挙措平日と少しも異らせ姶はず、『今回の損害は誠に残念であるが、軍令部総長には之により士気の沮喪せさざる様に注意せよ。尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じおいた』との お話しあり。英邁なる御資質を今目の当たり景仰し奉り、真に皇国日本の有り難さを痛感せり。

さらに敗戦後になって木戸は、学習院大学教授金沢誠らの華族研究会との対談において次のように述べています。
陛下は、戦争の状況はよく知っておられたですか。と問いに答えて、

それはよく知っていらした.陛下はツンボ桟敷というのは全然うそです。ミッドウェイ海戦で日本の航空母艦が四隻やられたなんてことも、すぐ、われわれのところ(内大臣府)には知らせて来ている。その点、陛下をツソボ桟敷にして勝手な作戦をしていたというのは全然うそです。大損害をうけた時でも、ちゃんと申し上げている。だからぼくなんか開戦当初のほんの二、三カ月以外は、全部いやな話をきいている。(金沢誠編『華族』P180)

 東条が天皇の信頼をかちえることができたのは、何よりも彼が天皇の意向を直接国政に反映させようと努力したからです。だから東条内閣くらい各大臣の奏上の多い内閣はなかった。また、東条自身も自分自身の出来る限り、重要な問題はその研究の途中において奏上することに心掛けていたのです。それ故、天皇は経過を充分に招致であったから、決定案を上奏するには時間をようせず、お許しになる。つまり中間報告を申し上げることによって本当の御親政が行われる。