明治初期の江戸の没落町人の子であった長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん)は次のように述べています。

明治維新後権威を振ったものは、新聞界でも実業界でも政治界でも、皆「「田舎漢」だと、そのころ徳富蘇峰が「国民の友」の論文でも書いていたが、時代ののさばり出るその「田舎漢」を軽蔑して、引込思案になる風が、変革期の没落市民の子には間々あった。私もその一人で、不詳な兼好法師というところである」


近代以前の民衆の天皇観や皇族観はどのようなものだったのでしょうか?

一般の民衆は、天皇とは無縁で、天皇の存在を目で確認することはできなかったのです。しかし、なかには後醍醐天皇壱岐島に流されたときにその道筋にいろいろ民衆の伝説が残ったりして、たとえばテンノウとかテンノウサンとよばれる民衆の語尾は全国各地から採取されている。「天王御幣」「天王降し」「牛頭天王」などです。いずれも災難避け厄除けなどの土俗的な民間信仰の対象でした。政治的には天皇はダイリ、キンリなどと呼ばれることが多く、また欧米では「ミカド」として知られた言葉です。明治なると天皇を認めさせ、信仰させるために薩長政権は死にもの狂いの働きをしなければならなかったようです。天皇が全国を行幸したときも、小休止したりお昼をとったり、宿泊した場所は聖域として保存されています。ちなみに幕末の志士たちは天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」「玉を奪ふ」などと盛んに用いらます。民衆の憲法草案では一般的な皇帝が多く、国帝、国王という呼称も用いられていました。そこで明治政府は「天皇ノ称ニ一定スル」と主張します。民衆には、現在の「天皇」の呼びなである「テンノウ」は明治時代により統一されたことになります。