天皇

日本国民は袋のネズミのようなもので、外から入ってくることもむずかしいが、いざという場合に国外へ亡命することも容易ではないです。今でも離党では犯罪が少なく、戸締りをしない習慣が残っているのはそのためです。日本の外敵といえば、アイヌ、クマソくらいのもので、これらはほとんど日本民族の中にとけこんでしまっています。外界とのつながりがないからです。そして、この四つの島に、世界でも珍しい単一種民族が生ます。いや、日本民族といっても、もとは、海外からの雑多な種族によって構成されているのですが、民族意識が単一で純粋なのです。民族意識というものは、血とは大して関係がないです。このように日本は、単一民族意識の発生しやすい地理的条件にあって、その民族意識の頂点に天皇がおかれたのです。天皇崇拝の強度と純粋度は、民族意識の強度と純粋度に正比例します。
それが、“万世一系″という形で永続性を保持してきたのも、島国であるという地理的条件におうところが多い。”万世一系″それ自体は、実はナンセンスにひとしい。この世に生きとし生けるもの、すべて万世一系ならざるを得ないです。ただ日本の皇室が、相当長い期間権力の座にあるか、あるいはそれとつながりをもっていたということは、「万国無比」といえないまでも、確かに珍しい実例にはちがいない。

では、一般の人々は、どのような宗教感覚であったかですが、神社に行くと名前のわからない神様がお祀りされていることがあります。地主神とだけ書かれていることもあります。名前はあっても由来がよくわからない神様もあります。古すぎてよくわからない。ただそれだけだと思ってませんか、ところがもともと古代の神様には名前がついてない(知られていない)ことも多かったのです。
平安時代の僧侶で歌人だった西行法師は伊勢神宮を参拝したとき「何事のおはしますをばしらねども かたじけなさの涙こぼるる」と歌を詠みました。
ただし当時、僧侶は伊勢神宮の神域に入れなかったので五十鈴川の対岸から詠んだといわれます。
現代的に言えば「どんな神様かは知らないけれど、感動で涙がこぼれる」という意味の歌です。西行は出家前は佐藤義清という名前の武士でした。京都で天皇を守る役目をしていましたから伊勢神宮にお祀りされている神様をまったく知らないとは思えません。でもそこが世を捨てた西行法師らしい言葉でしょう西行法師ほど極端ではなくても日本人は似たようなものでした。つまり、神様の素性は気にしなかったのです。現代人が西行法師と違うのは伊勢神宮に行ったからといって涙を流さないことでしょう。
それはともかく、もしかすると古代のカミにも名前はあったかも知れません。でも古代の人々は「神様の名前を口にするのは失礼だ」と考えましたからよけいに名前が伝わりませんでした。

だから古代の人々は、名前はなくてもただ「カミ」として崇めていました。それで十分だったのです。古代から続く日本人の信仰と神様に名前がつくようになっていきさつを紹介します。

明治国家を建築した若者らが天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」「玉を奪ふ」などの隠語で盛んに用いられ、政治的術策を「芝居」と呼称したことなどは、彼らが伝統的規範意識から脱却していたことを表している。天皇の伝統的価値が若者らによって信仰せられたからではなく、天皇への信仰から解放された者だったから、「玉」を自由に操り、そこに国家建築が可能となったのです。明治臣民教育によって、近代技術文化の恩恵には存分に浴したいと心がけながら、意識一般、ことに政治意識の近代化だけは、自らに否定しつづける人間が帝国臣民の理想型ということになった。これは世界史上、近代にいたってはじめて生み出された品種であり、しかも日本の精神風土の継承、受精においてのみ可能な交配種のひとつである。

長い徳川の権威の下に天皇とは無縁であった民人に尊王攘夷、王政復古の中核になる天皇像をどのようにして民人の中に定着させ、ひろめていくかということに苦心した。
当時、民人と宗教は、日常生活の中に密着していたのを利用した。天皇は民人を統一理念に糾合していく為に利用できる恰好の手段でもあった。
古来から民人の身近な宗教であり、ささやかな現世利益にも結びついていた産土信仰や氏神信仰としての神社(神道)を利用して、従来の神社(神道)の姿から大きく変質させ、歪め、作り替えていった。
これを神社(神道)改革と呼ぶ。
明治政府が作りだしたものは、天皇信仰を民人の中に広め定着させる道具としての神社(神道)であり、これを国家神道という。
では、神社の改変はどのように行われたか。
まず、「社格制度」というものが作られた。それは天皇というものが、いかにすべての神々の頂点に立つ立派なものかを知らしめる目的のために作られた、天皇家の祖先神である天照大神を祀った伊勢神宮を頂点とするピラミット体系であり、官弊社、国弊社、府県郷村社、無格社からなっていた。
また祀られる神々自身も意図的に作り替えられた。つまり、当時の一般的な民間信仰にもとづく神仏習合の神々を「記紀神話」の神々に力づくで替えていった。
これを「宮中三殿信仰」の強要という。
宮中三殿とは、天皇の祖先神である天照大神を祀る賢所、歴代天皇・皇族の霊を祀る皇霊殿、その他の神々を祀る神殿で、造化三神天之御中主神・高尊産巣日神・神産巣日神)と出雲神社祭神の大国主神を最後の神殿に入り、三殿の序列はこの順序であった。
国家は神話の神々を利用し、天皇中心の新しい神を打ち出し、強要したわけである。
こうして神社そのものを人為的に改変し、それと並んで国家新道の傘下に新しい神社を次々と創建していった。
こうした創建神社こそは、天皇制下の国家神道の理念を代表するものであった。
私たちの知っている神社のほとんどは明治以降の創建神社であり、その祭神というのはほとんどが「人」である。つまり、天皇、皇族,功臣や戦没者などの「人」が神として祀られている。これは古来の伝統的な神概念とは異なるものであり、天皇への忠誠心に対する崇拝の思想を民人に広める目的で創られたものであったことは、言うまでもない。
1906年から10年にかけて神社の統合・合弁がおこなわれた。一村一社主義といわれるこの統合によって、無数の神社が統廃合され、民衆にとって最も身近な氏神産土神を祀る無格社を中心に、6,7万の神社が整理された。神社は神道による天皇制強化の拠点となっていく。「敬神愛国、天理人道、皇上奉載」などの言葉で民人の教化し、さらに、治安維持法により「国体の教義」を逸脱したものは、取り締まっていった。
太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもない。
戦後、多くの国が天皇を戦犯として裁くべきだと主張したにもかかわらず、マッカーサーはその要望を退けたのは、天皇を政治的に利用するためです。日本政治の特徴は、事実上単独占領あったアメリカの国策と日本指導者たちの思惑が一致したことにより敗戦後も日本指導者たち内部の勢力交代があっただけで、天皇・皇族・官僚・政治家の全体系が従来のまま中央政権としての統一を保ち、アメリカ占領軍に従属しながら日本の政府として民人を指導しつづけたのである。戦前の天皇制は修正されたが、天皇を中心とした旧体制は、一時、崩壊しただけで、ほとんど崩壊せずに残ったのである。こうして天皇の戦争責任は免責されたと同時に旧指導者たちの思想は温存され、民人軽視の官僚主義がこの日本国家の中に生きづいているのである。
わが国の戦争を誘導し指導した人々の間に祖国を戦争に或は敗亡に導いたことについて、同胞をこの非況に陥れたことについて、これを同胞の前に詫びるというような気配はほとんど見受けられなかった。
国民に対して責任を負わねばならぬ者が誰もいない政体とは何であろうか。
占領軍進駐後の二ヶ月の報告書に「民主主義にいたっては、日本人民には未だかつてどのような形式にしろ、その経験がない」と記載れている。これは、国民の臣民的な政治意識の何もののせいでもあるまい。しかし、終戦にいたるまで、言論の弾圧や思想の統制の狂暴な嵐があまりにもながくつづいたために、わが国人の民主主絵義的傾向は文字どおり仮死の状態にまで立ちいたっていたことを思えば、しかたがないことである。天皇の「天」は、明らかに中国的な発想というよりも、シャーマニズムからきたものであろうと思う。日本で神道となって、天皇を神格化する上に大きな役割を果したからです。そいう日本人の純粋になりやすい民族意識を、統治の原理として時の権力者たちは、政治的に利用するのが常であるのです。