薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きについてどう思いますか。

薩摩は長州と結んで、慶喜とは並び立つことができない敵手として、新しい国家を建設するその指導権を争うとしていたのである。慶喜が在京十万石以上の諸藩の重臣を二条城に招いて大政奉還の決意を表明します。大政奉還の一挙によって名声を高めた慶喜がロッシュ曰く「憲法改正のために天皇の召集する会議」の議長となったであろうことは、ほぼ確実で、こうなればオランダで法学を学んだ西の手で起草された憲法が新しい日本の政治の体制を決定することになるはずであった。この憲法草案によれば前将軍は政府の首長兼上院議長となり、下院の解散権をもち、天皇は議院を通過した法律にたいし、拒否権をもたないことになっていた。慶喜の侍講であった西 周(にし あまね)は、将軍を辞した慶喜のために憲法草案の起草に当っていたのである。慶喜のこの野望を砕くためには、薩長の武力討幕以外に道はなかったのです。
ちなみに、明治憲法は、明治14年の政変によって大隅伯の急進的な憲法を抑えるため、やむを得ず時間切れを警戒して、即席で作ったインチキ憲法で、内閣については憲法55条に規定があるだけで、この機関自体についての憲法上のその他の規定は定めず、超然内閣を宣言したのである。この伊藤のインチキ憲法のおかげで、戦争の道に向かう軍部の独走を許したことはよく知られているところです。大阪にいた中江兆民憲法の全文を見るや、「通読一遍唯だ苦笑する耳(のみ)」であったといいます。
大秀才の高杉晋作久坂玄瑞坂本竜馬は死んでしまって、その後をついたのが、伊藤博文山県有朋とかの、足軽のせがれや、百姓に毛がの生えたような田舎漢の若者であったので、権威もなく実力もないから天皇を祀りあげ自分らの権威として利用して、新政府を作り上げたのです。そして日本国民を「臣民」に陥れことに成功して、彼らは難なく個人的な栄達を求めることができたのである。当時孝明天皇は幕府を頼りして、公武合体思想を持っていましたので、孝明天皇を生かしておいては、討幕が実現しないということで、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、16歳の明治天皇をロボットにして新政権を作ったことから見ればまんざらではないと思う。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかった。明治維新以来、対外膨張路線はその表れであり、徳川慶喜主席の諸侯会議なら、「尾大の弊」の弊害もすくなく国内の不満も薩長体制ほどではなかったと思う。「尾大」とは討幕の挙兵を意気込む下級武士・農民・商人などをふくむ兵士大衆のエネルギーを指導者が統制しきれない情勢を意味しています。