尊皇攘夷は過度期の便法

尊皇攘夷の思想を利用して若者らが、天下を握った。彼らは、尊皇攘夷は過度期の便法とみていたと思うが、彼らは危険がのぞむごとに、日本人の尊皇の心を利用して、その絶対的な権威のかげで、明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその正統性を確保しなければならなかった。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかったのです。明治維新以来、対外膨張路線はその表れです。しかし19世紀的な世界経済の行き詰まりは日本の幼弱な資本主義を煽って、対外的には露骨に武力手段に訴えるものとたらしめると同時に国内的には人権尊重のごときをいよいよもって止むをざる悪害としかみない警察政治を頼りします。明治維新以来の急速な資本主義化にもかかわらず、この資本主義の発展そのものが、幕藩時代から受けついだ封建的思考を踏襲し、依然として人々の心をとらえていた無垢な思考を極力利用しながら推し進められてきたような事情にあるわが国としては、一般的意識形態の立遅れがきわめて著しい特色として溜められたのは、むしろ当然の成り行きです。

この意味では、満洲事変以来無条件降伏に至るまでの全過程は、近代技術文化の恩恵には存分に浴したいと心がけながら、意識一般、ことに政治意識の近代化だけは、自らに否定しつづける人間が帝国臣民の理想型となります。こうしたなか、国内の政・財界の腐敗はつづき、農民は困窮をきわめていた。そこで軍による国家改造もくろみ、2.26事件であわよくば政権を獲得せんとしたが成功せず、次第に軍への不平もたかまってきたので、そのボロ隠しで国内の関心を外に向けようと企てた大博打がシナ事変で、天皇を神様に祭り上げて世界的な未曾有の危機を乗り切ろうとした、最後の、まさしく国運を賭した大冒険が日米決戦である。
なぜこうなってしまったのか?日本はどこで歴史を間違えてしまったか?
当時孝明天皇は幕府を頼りして、公武合体思想を持っていましたので、孝明天皇を生かしておいては、討幕が実現しないということで、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もありますが、16歳の明治天皇をロボットにして新政権を作ったことから見ればまんざらではない。結局彼らの権威だけでは、国をまとめることができなかったので、対外戦争を繰り返すことによって国をまとめていかなければならなかった。そして、勝利によって国民は熱狂して、差別意識が増幅された。近代精神に逆行して、国民の不満を抑えるために天皇さまをますます神様に祭りあげてしまいす。臣民は、「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、権利などというものはほとんど与えられず、臣民として不断の戦争にかりたてられつづけたのである。そして日本はその滅亡の淵に立つ事になったのだ。それが大東亜戦争です。兵隊さんを海外に送り続け、国力を疲弊させ、挙句の果て、兵隊さんを山程餓死させ、つまるところ敗戦も、尊王心が全くない西欧かぶれな薩長の田舎もんのクーデターがその元である。公武合体路線でそのまま尊王に篤い徳川の権威による近代化を達成したほうが日本的で実状に合致してよりよかったかも知れん。
徳川慶喜の日本統一国家のプランは、西周助が考えます。政府の頂点に徳川慶喜が大君として就任する。政府は大阪に置く。議会は上院と下院のふたつで、上院 には万石以上の大名を招集する。下院の方には有能な藩士を登用するというものです。実際当時においては、現実的な外交交渉を行いえることができたのは徳川幕府だけだ。

オールコック(イギリス駐日公使)は次のように述べています。
この封建制によって日本人は、われわれの考えている意味ではないにしても、多くのしあわせを享受することができた。西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長年月にわたって、このしあわせを確保することはできなかったのである。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩これらはすべて、日本人が国民として所有し、そして、何世代にわたってうけついできたものである。