大君制国家

大政奉還の前日、つまり、10月13日、洋学者西周は、二条城に召し出され、慶喜に国家三権の分立やイギリスの議院の制度などを西に問い、西はそれらのあらましを述べた。そして、それを手記して翌日慶喜に提出した、とされる。西の立案した構想は、「大君」制で、大君に慶喜がなり、大阪を拠点として、議会制の形をとりながら政治の実権は大君の慶喜に集中する。軍事的には当面は各藩がそれぞれもっているが、将来はすべて大君が把握する。一方、京都の天皇は政治にまったく無権利の状態におかれる。これを大君制国家という。これをなんの構想もなく、権力闘争で武力をもって打ち砕だき、天皇を神様に祭り上げ日本をダメしたのが西郷隆盛です。
危険がのぞむごとに、日本人の尊皇の心を利用して、その絶対的な権威のかげで、明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその正統性を確保しなければならなかった。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかったのです。明治維新以来、対外膨張路線はその表れです。
さらに付け加えれば、幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、さらにはフランスと修好通商条約を結びます。日本における外国の活動は、この修好通商条約できめられたフレームワークのなかでおこなわれたので、日本が西欧列強の植民地にならなかったのです。