大政奉還

>私は徳川慶喜公が愚かだったとは思ってはいません。
近代化もしていたでしょう。けれども、その装備に優れた徳川軍は、薩長を中心とする軍に敗れたのです。
それより強い欧米各国の軍、そして国家規模の大きい清国軍に、徳川政府軍が勝てたとは考えられません。

君は我が国が幕藩体制では、近代国民国家に脱皮できず、強い欧米各国の軍、そして国家規模の大きい清国軍に、徳川政府軍が勝てないと主張していますが、その議論は事実に反していて成り立たない。なぜなら、慶喜大政奉還の奏上を朝廷が裁可した時点で、法的には幕府は消滅するのだから、それ以後はもはや幕藩体制ではないです。慶応3年11月10日、大政奉還の勅許が出て、徳川の治世は終わっています。
そもそも、我が国では、鎌倉以来、武家が政治を行ってきた。しかし、いくらその支配力が絶対でも、国の頂点に君臨するのは武家ではない。大和朝廷によって日本という国が誕生しても、日本最高権力者は、建前上、ずっと天皇だった。事実、鎌倉から江戸にかけて、日本を支配した武家のトップは権力を正当化するために天皇の後ろ盾を得ている。それは江戸時代でも同様で、建前上、幕府は天皇から権限を授けられ、政治を行うという体制だったのである。よって明治維新とは慶喜大政奉還によって、生じたものである。幕府から政権を引き継いだ明治新政府は、国際的に独立国家として新生日本の船出だったのだ。

その流れを述べれば、王政親政のクーデターを起こし、慶喜を閉め出した倒幕派は、更に慶喜だけに辞官と納地を迫った。対して、慶喜は京都での武力衝突の事態を避けるためにいったん大阪城へ下がることを決め、容保や松平定敬も会桑藩士を率いてこれに従った。その後、朝堂では、山内容堂後藤象二郎らが熱心に動いて、もともと圧倒的多数派であった公議政体派が優勢に立ち、慶喜だけに対する懲罰的扱いを取りやめさせることに成功した。そこで、慶喜が、朝命を受けて上洛し、辞官納地を受け入れることが決まった。ここに至って、もともと朝堂内で少数派だった倒幕派は追い込まれ、窮地に立った。焦った倒幕派はとんでもない奸計を弄す。すなわち、西郷隆盛は、浪士を雇って江戸や関東各地で放火略奪など暴虐の限りを尽くさせ、江戸では、御用商人や警察組織らに誅戮を加えていた。浪士たちは辻斬り、強盗、放火と大いに暴れまわった。捕らえられ薩摩藩屋敷内で処刑をしたりした。彼らは薩摩御用盗と呼ばれ、首都でテロを繰り返していた。12月23日夜、三田の庄内藩屯所への発砲事件が起こります。江戸市中取締庄内藩を主力とした軍勢で、庄内藩の安部藤蔵が薩摩屋敷に出向き、留守居役の篠崎彦十郎に浪士たちを引き渡すよう掛け合いました。しかし薩摩側はそれに応じず交渉は決裂して、戦争が起こり、薩摩藩屋敷は焼けてしまいました。そして鳥羽伏見の戦いが起こります。つまり、薩長は武力で旧幕府を武力で倒してしまいます。

そして作った維新政府は、内部権力闘争を繰り返し、日本の根幹であった農村機構を破壊し、維新官僚で起こした官業工業は赤字で、そのほとんどの事業は薩長企業に捨て値で売り飛ばされた。これにより日本の政治や産業は、薩長閥に独占され、官僚と企業の癒着が起こり、日本国の近代化は損なわれ、進歩的な思想や民主的な思想は、薩長政治財閥の独占にとっては、邪魔になるだけで、臣民として国民を教育した。暴力によって社会秩序を破壊し政治権力をものにした維新政府の悪例は、閔妃暗殺や昭和時代のさまざまなテロ、軍部内の下剋上などを正当化した。テロリストや軍部が「昭和維新」を唱えたことが、なによりそれを物語る。これが、日本が明治維新以降にだんだんと野蛮になっていった原因で、その結果日本に敗戦をもたらした。