米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代

次の文章は民俗学者柳田国男が1954年に著したものである。 

1878年明治11年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給から除外出来るものではない。そうした人々は,戦争になって、いままでよりよけいに米を食べるようになったのである。(中略)それにしても大勢は明治以後、米以外には食わぬ人々が増加し、外米の輸入を余儀なくさせる状勢であった。こうした食糧事情に伴って、砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなど、明治年代の食生活の風俗は目まぐるしいほど変化に富んだものであった。


民俗学者柳田国男の文によれば、米が本格的に日本人の主食になったのは明治以降であり、全国で一律に米食になったのは戦時中だという。江戸時代の農村部では、江戸や大坂・京都など消費都市とは異なり、米以外の主食物を手に入れることができた。地方ではそれぞれの土地で生産されたものを食べることが多く、多くの郷土食が生まれた。江戸時代に米を食べていたのは、食物を買わなければならなかった武士や町人・漁民だった。農民にとって米は貨幣であり、食べるなんてもったいないことはしなかった。米以外の雑穀を主食にしていた。
それに対して都市部では米を食べていた。米を生産していない人びとが、米を購入して食べていたのだ。明治時代に資本主義が発展して米需要が高まり、また地租減税によって農村でも米生産意欲が刺激されて、米の生産高が急伸した。明治以後は、砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなどで食生活は大きく変わったが、米はそれら砂糖や洋食によく合った。このような中で米食が増え、外米が輸入されるほどだった。 農村部でも徴兵制度で兵士になったものや都会に出たものが米食の慣習を農村に持ち帰り、米の使用量は増加した。それでも、非日常的なハレの日以外にはまだ米を食っていなかった。相変わらず、日常はそれぞれの土地にあったものを食べていたのだ。それが戦時中、全国一律に実施された配給制度によって、普段は米を食べない村にも米が配給されることになった。日中戦争の長期化で物資が不足したため、政府は計画経済化をすすめ、米など必需品を配給制にして軍に優先的にまわした。戦時中に実施された一連の計画経済のなかで、食糧確保のために米の増産政策が発表され、さらに食糧管理法が公布された。米はすべて生産者から直接政府に納入され、小作地の場合も小作農が直接政府に供出し、小作料は供出の代金から地主に支払うことにした。二重価格制で直接生産者にのみ増産奨励金を交付するかたちにしたのだ。これは地主の支配力を弱める政策であり、戦後の農地改革につながった。これはまさに農村復興政策といえよう。また、これと並行して米の配給通帳制が実施された。
こうして食糧管理法によって自作農・小作農が優遇されるとともに、米への転作がすすめられた。食糧管理法による米作保護は、戦後の食糧危機の中で継続された。このように、日本の本格的な米食は、戦中・戦後の計画経済の中ですすめられたといっていい。
(2003年東大前期・日本史第4問「米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代!」の回答解説)