井上馨の条約改正

1854年2月、ペリーが軍艦7隻をひきいて.再び来航する。すでに幕府はオランダルートを通じて情報をしっかり集めていた結果、現在アジアの現状を冷静に受け止め、すでに開国の万針を決めていた。問題はいかに有利な条件で開国を開くかにあった。開国に関しての交渉は、横浜の臨時応接場で開始された。 アメリカの代表側はベリー以下5名、日本側も同じく林人学頭ら5名だった。会談は、オランダ語を共通語として、母国語に通訳しながら行なわれた。ペリーは本国から武力行使を厳禁されていたが、自分は軍艦50隻を近海に待機させているとホラを吹いて幕府を脅し「一戦も辞さない覚悟である」と高圧的態度にでてきた。日本側は、すでに国法では「異国船打払令」から「薪水給与令」に変わっているので、そう言うことは今の現実ではないとかわし、「双方深い遺恨があるわけではないのだから、戦争する必要はないだろう」と冷静に受け流して相手にしなかった。また「漂流民を不当に拘留している」との問いには「漂流民同志で諍いがあって、一時的にそうしたもの」と論破し、終始この対話の主導権を握ることとなります。ペリーは交渉早々、開国条約の草案を見せた。全24条。これは、アメリカか1844年に清国と締結した望厦条約をもとにしたものだ。このときペリーは焦っていた。列強諸国が日本に開国を迫ろうと狙っていたからだ。とくにロシア、イギリスはすぐにでも日本に使節団を派遣しそうな状況であった。何としても、一番に開国させたい。できなければ、かつてのアメリカのビッドルのように世論の激しい攻撃にさらされる。それは、誇り高きペリーにとっては耐えられぬ恥辱だった。
こうした焦燥感を日本側は抜いていた。条約の重要亊項たる通商粂項を、なんと日本はペリーに削除させたのだ。通商については「自国で自分たちの生活は十分まかなえる必要ない」さらに「清は交易から戦乱になった」と、さらに「人命尊重がこの条約の主目的」とアメリカ側が一番最初に言っておいて、交易を迫るのはおかしいと完全に押し切っています。
開港も下田、函館の2港に限った。また、アメリカ漂流民の保護の条項に、日本人の漂流民もアメリカ側は保護せよと双務性を迫って承謡させた。
こうして日米和親粂約の原型ができた。たしかにこの粂約には.不平等な部分が含まれる。しかし、列強諸国かアジア諸国と結んだ条約の.不平等さは、この比ではない。
戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償金を支払わされ、領土を奪われ.武力で脅され植民地のような条項を飲まされたりするケースかほとんどであった。そのなかにあって、平和的な交渉によって開国条約か締結されたのは、日米和親粂約がはじめてであった。
条約が成り、双方の粂釣を交換する段になって、林人学頭は英語・オランダ語・中国語の条約へのサインを拒否し、日本語の粂約攵のみに署名した。 「外国語でかかれたいかなる文にも署名できない」というのが、言い分であった。 ベリーは意表を突かれ、そのままサインがない条約分を受け取ってしまった。 翌日、強く抗議したが、幕府はそれを黙殺したのだった。ペリーの恫喝をいなし、日本の主張を通した。幕府の役人は、決して無能ではなかったのである。


その点、維新政府が行った条約改正では、井上は交渉を有利にするため、欧化政策で歓心を買うことにした。煉瓦作り2階建ての洋館・鹿鳴館を作り、外国人との社交の場とした。連日の舞踏会を開催した。伊藤首相主催の仮装舞踏会では、伊藤がベニスの貴族、井上外相は三河万歳、他に浦島太郎、石川五右衛 門、弁慶が登場する奇観だった。社交界で評判の美人であ極子夫人は、恵まれた環境で育ったことから、英語とダンスが大の得意で当時の鹿鳴館社交界の名花と謳われ、外人も日本人も争ってダンスの相手になろうとした美人だった。舞踏会の最中、伊藤はその極子夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴して、いかがわしい振る舞いに及んだので、夫人がはだしで逃げだした。
また、井上馨の実際の条約改正交渉では、明治19年には、井上外務卿として条約改正を各国の使臣と協議し、ほとんど成っていたのが、自ら日本が廃しする奇談があった。井上は当時の外務太輔である青木周蔵氏を信用して、彼のなすままに改正の会議を行い改正の商議が進行して、最後に決議録に調印することになった。ところが英・独行使と相談して作った条約案の中には、日本の法典を編成することを以て眼目条件となし、此の法典の翻訳は、外国使臣の許可を受けて後に発布するべしという条項があった。井上氏は協議の進行中に此亊に気づかず、決議禄に調印の後、如何なる筋よりか、この事か聞き込み、かくありては、各国公使をして日本政府の立法権に干渉せしむる端緒を開くものなりと大いに狼狽して、密かに伊藤氏と計り、決議案禄を内閣に提出するに際して、伊藤は大いに是非を論じて終に之を廃案となし.面目を失った井上は責を引いて辞職した。我が国の首相や大臣の奇観、奇談は語るものと言えども、羞恥念にかられる思いである。