国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉

>戦争を支持したのは昭和天皇なのですか?


英米開戦において、いかに熟慮を重ねて、主体的に判断された。 東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではないです。


>またその場合、国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉は?


続々ともたらされる勝報に、1941年12月25日には早くも、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」といって、喜びを隠さなかった。

1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。
天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。これは、8月28日の「お言葉」である。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、
「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

1943年は、米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。
「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日)
いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。

1944年に入っても、「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日)といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島サイパン島まで陥落してしまった。

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。
よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。
「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編)
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。
「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)
こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編)と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和海上特攻につながった。
「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(戦史叢書)制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。厳しく重い「お言葉」ではあった。

1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡伊勢神宮に、草薙剣熱田神宮にあった。
そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

日本が8月14日の天皇の命令が行われるまで、戦争が終結しなかった理由は、戦争犯罪人の処罰も日本側で行うという、武装解除は日本側で自主的に行う、保障占領は行わないという条件を主張していたからです。一般的に「一撃を加えてより有利な条件を引き出す」ため「有利な条件」とは、このことです。この中で「戦争犯罪人の処罰も日本側で行う」ということが、天皇も最後の最後まで拘っていたからこそ、この日まで戦争の終結をみなかったのです。
「なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えにさえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると思う、との木戸の話である。(高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』

「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)
そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。

8月14日早朝のことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。
終戦に手間取るあいだにも国民の犠牲は増え続けていた。14日から15日早暁にかけてB29二五〇機が七都市を焼夷弾攻撃し、高崎、熊谷などが全焼して数千名が死傷します。
天皇や木戸らは、国民が真実を知ることにより「民心の悪化」を恐れ、アメリカではなく国民に対して「国体」の危機を感じとっていた。
有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。