和魂洋才

維新直後、政府は西欧の文物をとりいれるのに躍起になっていた。民間でも西洋化は著しく進展し、その方向は近代西洋文明の経済力や軍事力に注がれ、日本とアジアの固有な文化や独自の発展について、充分な検討がされたとはいえないのである。文明化の度合という比較というものの基準は軍事力にあった。そして、軍事力を中心にして諸国の格付けがなされたのである。こうして明治維新以後、近代西洋文化に日本人は大きな抵抗をすることなく、むしろ争って近代科学と近代文明を摂取することに努力した。当時の多くの日本人は、一面において新しい西欧文物の流入になじみがなかったからである。しかし、和魂洋才の和魂はまだ残っており、特殊の人物を除けば、全面的な欧化にはまだ抵抗する気風もあった。そして、欧化に対する反動がおきる。西洋文明の流入に対して、日本の固有性.独自性を守ろうとする防術的自覚である国粋が増幅されていく。明治二十一年に憲法が発布され、翌年に 第一回帝国議会が開催された。教育勅語の頒布はその翌年である。日清、日露両戦争で勝ちすすみ、国粋は大いに昂揚し、振り子が右に振れたかのように、国粋主義路線を突っ走る。すなわち国粋(国権)にしろ、民権にしろ、この近代西洋合理主義が、日本に受容されたとき、ある時は国粋としての対外膨張と結びつき、 ある時は民権としてのデモクラシーとして西欧崇が日本の伝統文化への軽視として表れるのである。
さて、日露戦争がおわり、不平等条約の撤廃の見通しがついた後の大正時代は、目標の喪失 から精神的な弛緩がおき、欧化へとゆれる。大正の十五年間は大正デモクラシーで象徴される時期である。日露戦争に勝って後、すでに西洋列強と対等に近づいたという意識を持ち、よりいっそうの全面的、無制限な欧化へと深入りしていった。
欧化が圧倒的になると、国粋は苦境においつめられ、ひどく排他的で独善的となり、ヒステリックになっていく。昭和四年以後の大恐慌を契機として、より強い国粋化が始まる。このようななかに、満州事変へ、日中戦争へ、さらに太平洋戦争へと猪突猛進し、ついに一九四五年の敗戦をむかえてしまったのである。