徳川慶喜

sagunaresuwaさん
2015/1/623:04:09
歴史にifは無いですが、もし、幕末の時代に徳川家茂孝明天皇が長生きしていたら、薩長のクーデターは成功していなかったと思いますが…
歴史に詳しい方
もし、徳川家茂孝明天皇が長生きしていて、徳川家と天皇家公武合体が順調に進んでいた場合、幕末の日本の未来はどうなっていたと思いますか?



徳川慶喜は近代化を進めていましたので、工業が発展して、輸入国から輸出国に転化する時代が早まったと思う。そして、武器輸出国として栄え、国民のレベルもそれに応じ上がり、アメリカと対等に付き合いができる国になったと思う。

ペリー (アメリ東インド隊司令長官)は「実際的および機械的技術において、日本人は非常に巧緻を示している。日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技術を有したならば、強力なライバルとして、機械工業の成功を目指す競争に参加することであろう」と述べています。

徳川慶喜の日本統一国家のプランは、西周助が考えます。政府の頂点に徳川慶喜が大君として就任する。政府は大阪に置く。議会は上院と下院のふたつで、上院には万石以上の大名を招集する。下院の方には有能な藩士を登用するというものです。明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその「正統性」を確保しなければならなかったのです。それに国際社会の荒波に乗り出したからには避けることのできない暴風に見舞われ、危機に臨むごとに、近代精神に逆行して、最後には天皇を神様に祭りあげてしまいます。徳川なら約700万石、全国の約四分一の石高を占めているぐ らいの勢力をもっていたので、武力による「正統性」も必要も無いです。実際当時においては、現実的な外交交渉を行いえることができたのは徳川幕府だけで す。

オールコック(イギリス駐日公使)は次のように述べています。
この封建制によって日本人は、われわれの考えている意味ではないにしても、多くのしあわせを享受することができた。西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長年月にわたつて、このしあわせを確保することはできなかったのである。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩これらはすべて、日本人が国民として所有し、そして、何世代にわたってうけついできたものである。(大君の都)
ハリス(アメリカ駐日総領事)は
彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく、人民の 本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響受けさせることが、果たてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であろうかどうか、疑 わしくなる。 私は、質素と黄金の時代いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産と安全、全般の人々の質素と満足とは、現在 の日本の顕著な姿であるように思われる。(日本滞在記)
ペリー来航のとき、異国船を一目見ようと海岸に押し寄せ、海辺は人であふれんばかりだったという。幕府によって、不備はあるにしても、当時、外国との折衝は上出来だったと思う。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償を支払わされ、領土を奪われ、武力で驚かされ植民地のような条項を、飲まされたりするケースがほとんどです。そのなかにあって、平和的な交渉によって不平等が少ない条約を結びます。

「騎兵隊日記」に「天下之人望以前ニ異リ、道路之浮言ニ候ヘ共、王政不如幕政、薩長ハ徳川氏ニ劣候抔、相唱ヘ候様之義モ有之哉」とあります。
天下の人心は、以前とは異なっている。道路の浮言に候へども、王政は幕政にしかず、薩長は徳川氏に劣り候など相唱へ候様之義もこれあるや「道路之浮言」であるということは、人々のあいだにひそひそと語られてるということで、当時の人心の動向の真実性があふれている。