「女工と結核」と題する演説

石原修は九大医学部で衛生学を専攻した医学士であった。農商務省社会局に入り、紡績工場の監督官として各地を視察してまわった。各地を歩きまわり、数年の精査をへて綿密な基礎資料をつくり,一つを職務上の報告として内務省へ、一つを学位論文として大学へ提出した。しかし二つともタナ上げされてしまった。 「社会へ公表されると影響大なるにより」というのが理由であったが、しかし、大正ニ年十月、国家医学会例会席上で「女工結核」と題する演説が行われた。

まず日本の総体の職工数を見ますれば、私立工場の人数だけでも八十万あります。うち三十万は男 で、約五十万は女であります。日本の工業の盛衰権は女の手にあるというても、ほとんど過言ではなかろうと思います。
いきなり結核の数字をのべましても、あるいはおわかりにくい点があろうかと思いますからして、女工全般の模様をいっしょにのベまして, そうして結核の数字をごらん願いたい。女工の数は五十万でありまして, 二号表をごらんになればわかりますが、年齢の関係を見ますれば、五十万のうち二十歳未満は三十万で、二十歳以上は二十万であります。数字にはございませぬが、二十歳以上というのは大部分二十歳ないし二十五 歳未満のものなのでございます。とにかく日本の官立私立をとわず,日本のエ業に従事している労働者の九十万の三分ー、三十万人はまだ充分に発育もしないニ十歲未満の女工ら成り立っているということは、いかにも我が国の工業の基礎が薄弱たるということの証左とするに足ると思います。
次に寄宿舎別の割合を見ますると、女工の七割は寄宿しております。いったい、きくところによりますると、 西洋では工場を建てまするにはそこの村落の者を目的とする。その工場を立てました村落の者を職工にやとう つもりで、その村落に工場を建てます。日本ではそれと反対でありまして、その工場の付近に住っている者などには問題をおかぬ、そこよりはるかに離れた地方から若い子女を引っぱってきて、それを寄宿舎に入れて使うのであります。つまりこれかが結核の問題にとって、深い深い意味を含んでおります。
多数の工場では、じつは日本の工業界一般と申してもよろしいでしょうが、むしろ寄宿女工の方を非常に好んでいるのであります。通勤女工は出勁欠勤がマチマチになるので、一定の機械を動かして事業をするには甚だ不便であります。第一家の都合があって休む、第二には懈けて休む、第三には付近にお祭りがあれば休む,第四には病気になればむろん休みます。ところが寄宿女工はまず第一に家事の都合ということはありませぬ、第二には懈けるということはこれは別問題でありますが、もしも工場の付近にお祭りがあるとすれば見にゆきたいということは通勤女工でも寄宿女工でも同じ心もちであろうと思いま す。また病気にかかれば工場に出られぬということは、通勤女工も寄宿女工も異なるところがないだろうと思います。それらの点から寄宿女工を好むということは理由にはなります。寄宿ということは一つの拘禁制を含んでいる、意思の束縛を含んでいる、意思の束縛を受けやすいという 事柄を含んでいるかとも思われます。それでいったい女工はどういう労働状態にあるかということを少し述べてみたいと思います。まず生糸はどうかといえば、十三時間ないし十五時間も使っております。織物はとうかといえば、十二時間という所もございますが多くは十四時間ないし十六時間も使っております。
さて十四時間ないし十六時間使いますると、どれだけの時間がのこりましょうか。九時間ないし十時間のあいだにお湯にもはいらねばならず髪もゆわねばならず、而してこの時間内で休養もしなければならずという有様でありますから、ずいぶんせわしいように思います。かような状態でありまするから、まだ充分に発育しないところの女工にとって、はたして身体の休養ができるかどうかは大いに攻究しなければならぬところの問題であります。また我が国の文明はまだ充分の発達をいたしておりませぬが為に、これらのことを公認していいる事実があります。生糸織物の如きは外国の文明が入ってまいりましたけれども、在来の作業方法を改良するということが多くないように見受けられます。生糸織物の作業に重なる必要のものは生きた手でありまして,機械をあまり使わぬ。そうして大資本のものはいったいに少なくて、小資本の小仕掛でやっている家内工場に なっている場所が甚だ多いのでございます。
この関係は休憩時間に深き関係をもっているのであります。十三時間ないし十六時間使いまするが、もちろんこのあいだで食事時間を与えなければなりませぬ。またその他に適宜の休憩時間を与えねばならぬのであり ますが、またじつは与えているでもありましょうが、しかし何分にもただ今申しましたとおり生きた手が必要 でありまするから、どうかすると約束どおりにはゆかぬで延び延びになる点が多うございます。どこの工場にゆきましても、食事後休憩時間は二十分ないし三十分間としてあるが、三十分休んでいるからよいと思っていれ ばとんでもないことになる。三十分は最長限を示したので、女工自身が食事時間をちぢめて職業に就くのは勝手であります。もしもゆっくり食事をして食後三十分間も休憩しているというようなことをしたならば、監督者ににらまれるのであります。これに反して少しの余裕でもあれば働くというようにすると、監督者の目つき がよくなるのでございます。誰しも監督者の目つきの穏和なるを望みますから、沈着して食事もじっとしておられぬというような状態でありますのが見受けられます。中にはおにぎりを傍において食いながら糸を紡ぐ、 あるいは布を織っているという所もなきにしもあらずであります。そういう関係でありますから、午前の休憩 午後の休憩というようなことはどういう関係になっているかということはほぼ御想像ができようと思います。
のみならずこの生糸、織物の工場の設備はとうかといえば、立派な所がたまにあるがまず少ない。そうして 工場内はいったいに薄暗いのであります。生糸工場の如きは水蒸気がいつでももうもうと立っております。西洋形の工場でありますると左程でもありませぬが、日本形の工場になりますると、水蒸気が空気内に飛散しております。かくの如き所にまだ十分発育しないところの少女が労働作業をやっておる、これで健康状態を維持されてゆくということは不思議のようであります。
それでございますから、彼ら女工の体格を調べて見ますると一般に悪い、ことに二十歳未満の者の体格が目だって悪い。そうして長く仕事をやっておりますればおりまするほど,体格が悪くなる。十七歳の者の体格を見ると、十六歳ではいった者より十五歳ではいった者の方が悪い。十四歳ではいった者の体格は、なお劣ります。これらはまったく、労働の過激にすぎはせぬかということの反証であります。
第二十一号表に書きましたのは、連続徹夜業と体重との関係であります。三段目からごらん願います。七日間連続夜業を致しますれば一人平均夜業量の減量を示しております。

工場種類 調査人員 交替周期 一人平均 夜業後の 減量匁 同夜業中 減量の回 復量匁 同回復せざる量匁 備 考
紡績甲 81 7 170 69 101 昼業5日後 の調査
紡績乙 59 7 154 135 19
印刷甲 204 7 264 63 201
印刷乙 803 7 141 119 22
製菓 12 6 67 49 18
製鉄 211 7 317 214 103

(「工場衛生調査資料jによる)

勤続別割合 明治43年
種 類 調査 工場数 6力月 未癌 1力月 未満 2力月 未褊 3力月 未癌 5力月 未滴 5 *年 以上 計
約 績 41 205 214 272 131 111 67 1,000
生 糸 14 47 186 182 153 200 232 1,000
織 物 5 218 256 224 143 95 64 1,000
製 麻 6 197 127 120 109 236 211 1,000

七日間夜業をいたしますれば、この表に示しておる如く目方が減ると いうのであります。この表はあちらこちらに頼んで、ようやくこれだ けの人員について調べることができたの,でありますが、七日間連続徹 夜したならば体重の減ずるということは推測できようと思います。ど のくらい目方が減るかといえば、一例として紡績甲においては一人平 均夜業後の減量は百七十匁である。次の昼業間に回復するのはどのく らいかといえば、六十九匁である。回復しないうちにすぐ夜業にかかるということになるから、交替期間まで夜業をつづけていれば百一匁 は体重を奪われてしまうのであります。この表をもって推して考えた ならば、いつまでも夜業をつづけていったならば、ついには骨と皮ば かりになる人間が出てこようと思います。これでは堪えられませぬか ら、退職するよりほかないということになりましょう。仮りに目方が 昼業のとき回復するとしても、それは成長した人間であるならばそれ で身体のバランスが立ってゆくかも知れませぬが、まだ発育時代にあるのですからバランスが取れませぬ。そこでたとえば十四歳まで発育 し来たったが、工場生活をすればそれ以上発育をせぬということになるのであります。
ただ今ごらんになりまするとおり、昼業で回復しない上に幼者の発育時代に発育をさまたげるのですから、二重の損害を受けていると言わなけれぱなりませぬ。言葉は少し乱暴に失するかも知れませぬが、見方によりましてはこの夜業というものは、人間を長い時期において息の根を止めつつある行為では ないかと思われます。息を止めつつある行為はついに未遂におわるのであります。それはどういうわけかといえば、その被害者がとても我慢がしきれぬで自由に遁走する のであるから既遂にならぬですむのであろうと思います。かように思いきったところ のことが罪もないところの人の子女の上におこなわれているというのは、じつに異様 の感じをわたしどもに与えます。そこで図抜けて身体の丈夫な者は夜業に堪えてやってゆきますが、しかしながらこの夜業には死亡率の上に結核と密接の関係が出てくる のでございます。
そこで、かような仕事場においてどのくらい身体が堪えられるか、言いかえればどのくらい勤続していけるかということは第三号表をごらん願いたい。この表はある一 定の時期を限って、そこで市勢調査みたいなことをやりました。その結果は生糸は事 情が違いますが、紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ。勤続一年 未満のそのうちの半分は、六ヶ月続いて勤めないものであります。これは統計にあら われた数字を事実としまして,まず仕事についてから三ヶ月ないし六ヶ月のあいだに 工女をやめて出るものが非常に多い。紡績は三ヶ月で出る者が多いというのは事実ら しい。これを経営している方々からききますれば、こう申します。農業から転じた者 が規則的に出来ないから堪えられぬで帰るのだと言いますが、なるほどそれも確かな 理由の一つでございます。三月ないし六月で出てゆくということは、いま申し上げたような仕事は人間の仕事として堪えない、人の身体を破壊するというものではなかろうかと思われます。 三ヶ月ないし六ヶ月内で工場を飛び出すところのエ女の運命は、もう少しあとで申し述べようと思います。かような関係でありますから、毎年毎年工場主は多数の人間を雇いませねば営業を永続することができませぬ。
それで寄宿舎の三十五万の女工の生活について一言したい。彼らの衣食住について申せ ば、被服は工場着を用いることは稀でございますが、事実においては工場に出る着物と寄宿にいるとき着る着物と別になっておりますから、事実において大きな工場において工場着はあると認めてよろしゅうございます。
食物の点はすべて工場主からもらっております。その食物などを調べると、なかなかよい物を食っております。十年前は工場の食べ物は粗末であったということでございますが、ただ今では粗食の所が少ない。割合によい物を食っておりますことは工場主が女工の身体を丈夫にしようということからでもありましょうが、一方 は募集が困難になりましたから、人間の欲のもっとも手近なるものは食欲でありますから、食欲という手近かなものをもって女工の御気嫌をとり、それを広告として募集するようになっているということでございます。
それから住居ということも少し申さなければなりませぬ。小さい工場ならびに二階は寄宿舎を使っておりま すが、これらは地面の面積を節約するのと、前に申しました拘束がやさしいから、今一つはいわゆる風俗取締 りの便利だと称すためであります。大きな工場はまず大概工場と別に学校寄宿舎のようなものを造っておりま すが、その構造を見ますればだいたい二階であって、部屋の大きさは十何畳から三十何畳というマチマチのも のになっております。部屋の中の採光なども充分になっている所が少ないのであり、多くは薄暗い状態になっております。資本の大きいよい会社になりますれぱ寄宿舎の構造その他すベてゆきとどいておりますが、資本 の欠乏しているあまり大きくない工場では、寄宿舎もずいぶん思い切って粗末であります。
それで収容してありまする女工一人に対する畳数はどのくらいかというと、全体をひっくるめて女工一人に 畳一畳というような割合になっております。ところが長野県の生糸工場のたくさん集っているような所では、ずいぶんひどいので畳一畳にならない所があります。小さい工場にゆきますれば、むろんもっと狭い所もある かも知れませぬが、まずそんなものであります。
次に寝具でございますが、これは非常な特別な例外は別にしまして、まず女工二人に寝具一組しか与えませぬ。当業者の話をききますれば寝具は一人に一組ずつ渡しているのだが、場所が狭いから二人ずつ寝るとい うことを言っております。一人あたり畳一畳ではその方が便利でありましょうが、一枚のせんべい布団と一枚 のかけ布団をもらって寒い夜をすごすことは出来にくいと思われます。思いきったことを申すと当業者から御 非難を受けるかも知れませぬが、紡績にはそういうことはございませぬが、生糸.織物などの中以下の工場に なれば、場所が狭い上に布団が足りませぬから,いきなり布団を敷きつめて雑魚寝をやって当番の婆さんがかけ布団をもってあっちこっちから引っかけてゆくという有様の所がございます。女工の出入りは頻繁でござい ますから、一つの寝具は 一年に六人から七人のお客様をいただくことになります。そうして相手方の変るた びごとに日光消毒でもするかといえば、決してそういうことはしませぬ。それでございますから、六、七人の 中に不幸にして伝染病、ことに結核のあったときには、後に寝るお客様に皆伝染することになろうと思います。 伝染病を伝播さす有力なる要素であります。二人いっしょに寝るのでありますから、窮屈で十分に睡眠ができ ませぬ。足を伸ばすことも手を伸ばすことも出来にくいのでございますから、自然寝苦しくて睡眠が不足にな ります。したがって休養が充分にとれないことになります。次は発育時代の若い人間に色情を興奮させる、これらも誘因になって、結孩を惹起しているのではないかと思います。
ことに紡績会社の寄宿舎の事情を述べてみたいと思います。紡績では連続徹夜をしている工場では、二十四時間女工がいると同様に寄宿にも二十四時間女工がおります。これに二つの方法がありまして、一つは「片番 使い」他は「両番使い」であります。「片番使い」は寄宿を折半し、甲組寝室、乙組寝室として使います。この 場合には寝室は十二時間主人なしでおります。而して主人が昼業すれば、昼間は開放にして風を入れ光線を入れることができます。すなわち一力月の半分は室に光線と風が入れられます。「両番使い」は寝室を甲組乙組共同で使うので、甲組が夜掃って朝工場に出かけると、乙組は朝工場からきて日暮まで寝ます。いずれの所に ても二人一床は通則であります。昼間寄宿で眠りますとき明るいと眠られませんから、戸をしめるなり幕をお ろすなりします。つまり夜の模様に近よせます。それですから「両番使い」では年が年中夜であります。「両番使い」の場合に寝具まで両番使いになる、すなわち四人一具もまったくないとは申しかねまする。
かような生活状態でおって、結核が伝播せないことを望むは望む方が無理であります。
田舎の村落から募集されるもので調べの出来たのはー府二十七県でありますが、まず全 国で二十万人くらいは毎年工場に出稼ぎをするように思います。まあ二十万人として勘 定しますれば、そのうち十二万人は出たきり帰ってこない。そうして残りの八万人だけは、まず郷里に帰って くるということになっております。一年に十二万とすれば十年に百二十万人の娘たちを田舎から奪い取るということになりますが、これは村落にとりては容易ならぬ問題と思います。
その十二万の娘たちの運命のことを申しますると、彼らは国を出るときには、ふたたび国に帰るときには美服を飾って帰る。あるいは父兄の貧苦を救済するという目的で地方を出ましたが、さて仕事について見まする と、その仕事が思うに違ってじつにつらい。決心したことがとても出来ない。ついに三月ないし六力月のあ. いだに第一に来た工場を去ります。あきらめて国へ帰ったものは幸福でありますが、せっかく苦心して郷里を 出たのに目的を達しなくては郷里に帰るということは気はずかしい。この工場が食物がよい、仕事が楽だとききますると、つまり無智なるところの彼ら女エはそのエ場に入ってしまう。すると純潔なというては悪いかも知れませぬが、普通の娘でない渡り者になります。その 時分にはもう精神も堕落してくるし、それからしてだんだんニ、三所の工場を歩い ているうちに身体も続かなくなる、工場の仕事は嫌になる。ついには女工の気のきいたものは酌婦になるし、気の利かぬものは貧民窟の私娼になってしまうようなことがはなはだ多いのでございます。
また彼ら女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの六人または七 人のうち一人はかならず疾病にして重い病気で帰ってくる。まず八万の中で一万三千余人はありましょう。疾病たるのゆえをもって国に帰ります。一万三千人の中の四分の一、三千人というものは皆結核にかかっております。その関係は第十七号表をごらんになればわかります。
そうしてこれらの人々の故郷に帰りまして、自分の一家はもち工場統計の欺職ろん近隣に向って結核をふりまいております。その実例はたく さんきいております。医学士の菅野次郎という人が「実業之日本」に書いたのによっ てもわかります。肺病の戦慄すべき媒介物として、一青年の結核にかかりて三千人を斃したというような見出しで書いている。菅野君の住んでいるある田舎の方面で、男 女十四、五歳になると京阪地方に職工に出かける、皆ニ年もたたずに帰ってくる、いずれも病気で帰ってくるのであるが、どういう病気かと問いただしてみると結核であ る。衛生の何事を知らぬ田舎のことであるから、ついに四方八方に伝染さしたのである。その一例を挙ぐれば、ある村落で五士尸ぱかりある所である。ある青年が三重紡績の男工になって、国を 出てまもなく結核にかかって帰京して死亡したが、その後五年のあいだに三十名の結核死亡を出すにいたったのである。
私の友人に宮城県の奥に入った所へ調査にいった者がありましたが、その調べによりますると、あるときに 女工が三十人ばかり国に帰ってきたが、そのうちの二十一人は病気のために帰ってきたのであるが、その中で 十五、六人というものは結核にかかっておりましたので、いかに結核のために国に帰るものが多いかということは、この話によつてもわかることであろうと思います。
まだ幾らも例がありますが、まずその例を挙ぐることはこれたけに止めます。
この第十七号表に書いてありますのは、寄宿人百人以上をもっております工場は地方の官署に向って疾病のゆえをもって解雇したものの人名,年齢、病名というものを報告する義務になっておる、それがひとまとめに なって内務省にくる、それを拝借して調べたものでございます。これによって見ても、疾病のゆえをもって解雇したものが結核をもって国に帰る者の多いということが十分おわかりであろうと思います。工場から病気のゆえをもって帰すのはよくよくの重いものに相違ない。軽い者は趣きが違っておる、それらは肺尖ヵタルくらいは潜んでいるように思われます。これらは女工に籍がありますから決して解雇でありませぬ。それでござい ますから、工場を出すときには官辺に出す報告には届出の必要がない。それは事実においては自然の解雇になっている。ニ力月も三*月も帰ってこない、通信もないという者は解雇してしまう。そのときは病気が何かわかりませぬから、工場でも届け出ずることは事実できませぬ。決してわざと内々にしておくというわけのもの でもありませぬ。それゆえに官府の報告にあらわれたものの以外にたくさんあるということは間違いないところの事実であります。少し怪しくなれば帰すのであります。工場で作る疾病統計、死亡統計には結核は少ししかないということはあたりまえである。工場から出た統計を見て結核が少ないということを判断する人もありましょうが、もしそういう人があったらとんでもない間違いであろうと思います。
少しく方面が違いましょうが、女工の出稼ぎの現況と農村の関係ということについて少 少述べさせていただきたい。
田舎の村落から出るところの子女、俗語で申す「あまっこ」、お花さんとかお金さんとかいうそういう手合い、 これらは私の申すまでもなく、村落を繁栄せしむるところの重要なる人間で田舎の花役者である。それが毎年 二十万人に近いものが奪いとられるのである。その中の十二万というものは生れ故郷の町村にも帰らず他郷を 彷徨している。帰ってくる八万の者はたいてい体が弱くなって、中には重い病気もあります。いずれも健全な 身体を持っているとは思えない。
そんな状況でありまして、毎年日本の田舎からして二十万の「あまっこ」を失っている。事実において、これら農村の華役者たるところの「あまっこ」を擦り潰していると同じであろうと思います。農村を研究される 方は、この方面にお考えを願いたい。村落の父兄のことを考えましたならば、彼ら父兄は自分の大切な娘をは かない未来の光明のためにかくの如き悲惨なる境遇におもむかしめて、先刻申し上げた如き悲惨の状態に陥ら しむるのである。しかし悲惨の境遇に陥らしむるということを未然に知っているという者ならばまだしもであ りますが、結果にあらわれてはじめて悲惨の状況を知るというようなことは、彼ら町村の父兄の身上を考えましたならばずいぶん悲惨のきわみであろうと思います。
事柄が全国にわたりまするから、既にニ、三の府県では大いに覚醒をしてこれに対する方法をとっている。 新潟県山梨県宮城県などでは、きくところによると女工として外に出すということはできるだけ妨げることに努力しているということであります。それでございますから、日本全国の医師ならびに有力者がこの事情を知っているならば、何とかしてこれに対する方策を考えねばなるまいと思 います。工業界において女工等のボィコットをされたならば、たちまちにして経済界の大破綻をきたすのでありますが、あるいは将来のためかも知れま せぬ。まず目下のところはそういうこともなくてしあわせでありますが、それらの点もよく実業家などの考えおくべきことであろうと思います。
次に女工の死亡率ということについて述べたい。女工の死亡率ということは二つの方面から考えなければな らぬ。第一は工場で死んだもの、もう一つは工場を去ってから死んだもの。 これを合わせて勘定しなければ女工の死亡率とは言えませぬと思います。
まず工場在籍女工死亡率でありますが、先ほど申しましたとおり疾病のゆえをもって解雇したと同様に、死亡者のあったときは一々届け出ずる。それから全職工数というものを届け出ずる義務があります。これを原にして勘定いたしますると月末の職工現在 に対してざっと平均してみますと、織物は少々不明の点がありますが、まず年末現在員一千人の中十人、十一 人という者は工場で死ぬ、そういう風に一方から報告が出ております。私は工場の寄宿にいる者について調べ ましたが、年末(大正ニ年末)現在の寄宿の女工を問題にして考えますると、寄宿の死亡率は千人につきまず十 三人と考えます。
今度は工場を去って国に帰って、どのくらい死ぬかということを次に調べました。そうして工場を去ってか ら後の死亡率を推算しようと思います。
それは第十一号表をごらんになればわかります。この表の第一段は出稼地において、むろん工場において病気になったまま国に帰って癒らずに死んだ数、第二段目は他の理由で帰郷し、四十三年に重い病気になって死 んだのであります。これを合わした者が、まずまず工業のために影響を受けた死者と見てよかろうかと思います。
そうしますると、千人について三十人は国に帰ってきて死ぬ、そうすると三十人帰ってくれば一人死ぬわけ になる、とてつもない数になります。エ女が工場を去ってから死んだ者の数がそういう割合であるとするに、 よく<熟慮してみなければならぬと思います。先ほどから二十万、十二万*八万という数字を述べましたが、 それはざっと三分の一しか出稼ぎに行った者が帰ってこない、三分のニという者は郷里に帰ってこない、どこ に経廻っているかわからぬ人間でありますということを申したのであります。
さてその三分のニの人間のことを少しく考えて見たい。まず身体が弱くなって*とこやらすぐれぬという人間 は国に帰るということは人情の然らしむるところと思います。それでこの八万人帰った者の死者を調べて見ますると,すなわち千人の中で三十人死ぬという数字があらわれている。しからば、このあとの十二万人という 者に対してこの数で割り出すということは少しく乱暴の次第と思います。そうかと申して、十二万人の死亡率 の調べようがありませぬ。それでじつに極端の仮想でございますが、仮りに十二万人の人間がピン<してお って、そうして一人も死な.ないという前提をおいてみて、そうして国に帰って死亡した人の数を故郷を出た人 の数でもって割ってみた、そうすると一段目の一〇.四一という数になります。これが工場を去ってからの死 亡率とみればよろしい。実際の死亡率はこれより少ないことは決してなかろう、と私は考えます。
むろん十一号表という数字は、四十三年中病気にかかって四十三年に死んだ のである。それから四十三年に他の理由で帰って四十三年中に重い病気になって同年中に死んだ者の数で、四十三年に疾病また他の理由で帰って四十四年、四十五年に死んだというようなものははいっておりませぬ。ハンパの統計と見なければなりませぬ。そういう事実は放擲して千人中十人四分という者は、工場生活のために 国へ帰ってから死んだ者と見てよかろうと思います。それですから、工場在籍中の死亡率八人をこれに加えた もの、すなわち十八人は女工の死亡率の最低限と思われます。
私の考えは十八人から下らぬと思います。太陽が東から出ている以上は、少なくとも十八人以上だろうと思うております。
それで日本の工業はどのくらい死人を出しているかということになると、千人について 工業五千人を殺す死亡者十八人であろう。日本の女工は五十万人とすると、五千人の女工が死んでいる割 合になります。言いかえれば工業のためにこれだけの者が犠牲になった、春秋の筆法でいえば、工業五千人を 殺すということを言ってよかろう。謀殺故殺は刑法上の責任がございますのに、人間をかくして殺したのは何 の制裁がない。工業は見様によっては白昼人を殺しているという事実があらわれている。しかるにその責任を 問う者もない、さほど世間の人が重大とも何とも思っておりませぬ。じつに異様の感がおこります。
今から十年前にあたって奉天の戦争で戦死者七、八千、負傷者五万人くらいを出していると思いますが、エ業のために犠牲になったところの女工の数は奉天の死者あるいは傷者と相当するものではないかと思います。 いわゆる矛をとって敵に向かって戦をして死んだ者は敬意をもって迎えられ,国家から何とかいろいろの恩典 に報いられ、国民より名誉の戦死者とされ、また負傷者となった者は充分の手当を受け、名誉の負傷者として 報いられ迎えられます。それにもかかわらず平和の戦争のために戦死したものは国民は何をもってこれを報 いつつあるのであるか、国家は何をもってこれに報いているかということは私にはわかりませぬ。
涙深いことを申すようでございますが、女工の運命は実に悲惨なものでございます。やはり彼ら女工といえ ども、われわれの大事な同胞であろうと思います。また彼らを憐れむということのほかに、一方には国という上から考えましても,工業が結核を国内に撒布して世に立って働くものの生命を絶ち、よし生命を絶たれぬながらも体質の弱い者は何万人出ているかわかりませぬ。この国がいつまでもかくの如きことをして進んでゆき ましたならば、われわれは子孫のために不祥なる事柄を残すということになります。子孫に対し父祖として誠に恥ずかしいことではないかと思います。
いささか社会のため国家のためどうかと思いまして、あえて御清聴をわずらわした次第であります。

種 類 疾患により帰郷 し死亡せし者 事故帰郷後疾患に かかり死亡せし者 計
紡 績 51.1 12.2 63.3
生 糸 14.5 4.4 18.9
織 物 19.4 4.9 24.3
その他 9.8 5.1 14.9
計 24.1 6.6 30.7

17.工場職工未治解雇者1千人に対する病名別(明治39.40.41年平均)
種 類 肺結核結核の疑 がある者 その他の結 核性疾患 脚気 胃腸病 その他 計
紡 績 266 217 52 18 67 380 1000
生 糸 34 47 25 43 284 567 1000
織 物 200 380 — 113 20 287 1000

(内務省訓令によるもの)