朝鮮労務協会

企画院は、一九四二年の労務動員計画を、十三万人と予定した。その頃の朝鮮では、一九三九年二九四〇年の第一次強制連行組が二年満期で帰国した時期であるが、すでに募集が困難になっていた。特に炭鉱における過酷な労働と、自由のない拘束された寮生活のため敬遠された。それに加えて事故の多発は、身に危険を感じるのか炭鉱を希望する者はいなかった。そうした状況から今までの方法では、とても十三万人を集めることは困難であるとされた。

一九四二年二月、閣議で「半島人労務者活用に関する方策」を決定した。総督府はその決定に基いて「鮮人内地移入斡旋要綱」を制定、これまでの自由募集を改め、総督府の斡旋によって強制的に連行することになった。

それを専門とする「朝鮮労務協会」を設立して、職業紹介所と協力することになり、組織的、強制的に実施することになった。これがいわゆる「官斡旋」による強制連行というもので、国家の命令で公然と朝鮮人狩りが行われるようになったのである。