シンガポール虐殺

一九四二(昭和二七)年発行の『朝日東亜年報 昭和十七年版大東亜戦争』次のような記述がある。

 〔シンガポールは〕南洋華僑の中心地であり、重慶政権の抗日運動の策謀地であった・・ので、・・皇軍は二月十八日以来華僑を数ヶ所の指定地区に収容し、市内の粛正をはかり、抗日華僑義勇軍司令官橘喜大尉、南洋華僑?賑祖国難民総会執行委員紀辰以下中華総商会、南洋各属総会のなど幹部を逮捕し徹底的粛正を行ひ、二旦二十八日上より三月三日に亙って行はれた全鳥一斉検挙によって七万六百九十九人の抗日華僑容疑者を逮捕した。

従軍共同通信社記者津吉英男氏は当時の様子を下記のように述べておる。

反日分子かどうかの判別は、全く偶然によるもので、たとえば捕われた多数の市民の列から右にハネられた者は即時釈放され、そのかわり左にハネられた者は死刑というような極端なやり方で、その間の事情を知る者は戦争というものに伴う宿命的な残虐さをしみじみと痛感させられたということである。

 抗日分子が多いとされるイポーでおこなわれた「共産匪の討伐」に従軍した報道班員黒田秀俊は、次のような光景を目撃しておる。

 暁闇をついて周辺の部落をおそった各隊は、部落民をかりたてて、九時ごろまでには、部隊主力の位置に集合を終った。ここで首実検をされるのである。首実検の方法というのは、すでに獄につながれている囚人に覆面を施して一列にならべ、その前を歩かせて顔をあらためさせるのである。囚人は、一人でも抗日分子をみつけだせば死刑を免れるといいふくめられているので、無理にでも犯人をつくりだそうと焦るのではないかとおもわれた。五つくらいの女の児をともなった中国人の若い夫婦があったが、これなどは共産系の楽園に五十銭の寄附をしたことがあると密告されたために捕えられた。しかし、共産系の楽園というものが果してどういうものであるのか、ほんとうに五十銭の金を出したのかどうか、われわれが考えても、真偽のほどは怪しいものであった。指名されたものは、その内容によってチョークで背中にしるしをつけられ、列外につれだされたうえで、やがてトラックに乗せられて本部に連行された。若い夫婦がトラックに乗せられて行くのを、女の児がしょんぼりと見送っていた。それでも泣きもせず、しばらくすると、振り返りながら帰っていった。おそらくあの夫婦は二度ともどることはあるまい。女の児は、これからさき、どうして生きてゆくのだろう。わたしは、このときの女の児の姿が、それから当分のあいだ、瞼から消えなくて困ったものである。

感想

シンガポール陥落後の数週間に多数の華僑が処断されたことは疑えぬ事実である。無抵抗の市民を無差別に敵性分子と断定し、処断したことは、たとえ作戦命令による軍事行動の一環であっても、人道上からも国際法上からも許し難い違法であり、なんと無謀な行為をしたのであろう。