高松炭鉱労務課

それからすぐ京畿道に募集に出張するようにいわれ、二十日間で百二十人の割り当てだった。わしは旅館から目本鉱業の京城出張所に出勤して、各部に派遣している募集係からの報告を集約したが、何処も労働者が集まらないと悲観的だった。
 わしは広州郡の現地の募集状況を見に行って、肝を潰すほど驚いた。
 真夜中に一つの部落を面の巡査と面事務所書記、それにうちの炭鉱の募集係が木刀を持って、その翰を縮めながら一軒一軒一しらみ潰しに襲い、「ナオラー(出て来い)」と、働けそうな男を全員トラックに乗せていた。もう五年前の楚山での状況とは全く追っていた。
 抵抗する者は木刀で叩いて、血まみれのまま引きずって行ってトラックに乗せた。家族は泣き叫びながら、狂ったように後を追った。女房や子供が寄って来ると、巡査はトラックの上から蹴りつけた。
 部落を襲撃した後、広州警察署の留置場に全員を放り込んだ。それがすむと、警察署の一室で慰労会があって酒が出た。
 わしはどうしてそんな乱暴なことをするのかと、時に座っている面長にたずねた。

「あれのことを兎狩り作戦というですよ。少し手荒らにしないと、もう人間は絶対に集まりませんからね。昼は山に隠れて、夜になると必ず家に帰って来るんですよ」

 面長は平気な顔をしていった。言葉もはじめて聞いたが、同胞を犬や猫のように取り扱って平然としている面長の態度が、わしには理解出来んやった。募集の経験者から「朝鮮に行ったら五十日は帰れないぞ」と脅かされたが、早く集めるには、そうした暴力的な方法を取ったからだと思った。
 百二十人募集すると、朝鮮鉄道局で団体輸送の申請をして釜山へ出た。目炭高松炭鉱に着いた時には、途中で四十人が逃亡して八十人に減っていた。釜山の旅館から脱走したり、下関からの関門連絡船の上から海峡に飛び込む朝鮮人がいた。もう、わしは追いかけて捕える気力もなかった。舎監の水上さんが、逃亡する者は逃亡するといったことが頭に浮んだ。着いた翌日、わしは労務課長から呼ばれた。部屋に入ると

  「炭鉱は高い金をかけて募集しているのだ。四十人も逃亡させた責任を取って、その分だけもう一度朝鮮へ行って連れて来い!」と、怒鳴りつけられた。

「課長、お言葉を返すようですが、あんな乱暴な方法で強制達行して来ると、必ずうちの訓練所も脱走して一人もいなくなりますよ。私は朝鮮生活が長いので、かれらの心情がよく分かるんです」
 
それ以後、何度も朝鮮へ募集に行けと命令されたが、絶対に行かなかった。職務違反か何か分からないが、敗戦の月まで昇級はストップしたからね。わしはそれでいいと思っとる。
(元高松炭鉱労務課、・・照吉氏)