機密文書の焼却

ポツダム宣言の受諾決定から、最初の米軍先遣隊が厚木飛行場に到着する八月二八日までほぼ二週間に軍関係文書を中心にした機密文書は徹底して焼却されました。

参考

元陸軍大佐の服部卓四郎によれば、「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から、全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒が発せられ、市ヶ谷台〔陸軍中央官街の所在地〕上における焚書の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた」という。

 こうした焼却命令の徹底さをよく示しているのは、憲兵司令部からの通牒である。すでに憲兵司令部は八月十四日・十五日の両日にわたって「秘密書類の焼却」を各憲兵隊に指示します。八月二〇日には再度通牒を発し、「従来左の如き所に残紙あり。思わざる失態を演じたる事例多」しとして、残紙の再調査と焼却を指示している。「机、抽斗の奥に附着せるもの」「机その他の動揺止めのため脚下等に挟みたるもの」「棚の奥または下等に落込みたるもの」「焼却場に焼残りたるもの、焼却場の周囲に散乱せるもの」「私物参考書に綴込みたるものの整理漏れのもの」「その他書類庫、物置等の整理漏れ又は床上等に散乱せるもの」など微細にわたっており、さらに、「家宅捜索を考慮し、各自の私宅に所有しある書煩ならびに手紙類に至るまで全部調査焼却すること」と指示されます。

 このような軍の焼却命令は、市町村レベルの兵事文書にまで及び、警察のルートを通じて、陸海軍の動員関係の書類の焼却が各市町村の兵事係に命じられた。しかし、敗戦という混乱のなかでの命令であったため、多くの市町村役場では、動員関係以外の兵事文書まで、すべて焼却してしまった。

さらに、各新聞社に対しても、「戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力」が軍部からかけられ、多くの新聞社で、フィルムや乾板の処分が実際に行なわれています。

実際次のような証言があります。

昭和五十九年十月、常磐炭鉱跡地に開館した「いわき市石炭化石館」は常磐炭鉱の歴史や採炭技術、同地方で発掘された化石などが展示されているが、朝鮮人労働者についてはふれていない。これを知った林さんは、「常磐炭田労働者の過半数を占めた約二万人もの朝鮮人に触れた記述が何もない。史実や人の心の痛みから目をそらす、そんな姿勢が今でも変わっていないのがくやしい」となげく。(昭和62年2月21日、ある農業者)

参考

下記の最後の部分に当時北東アジア課長代理柳谷健介氏が次のように述べています。

徴用についての「資料は実際上消滅していたということが、はっきりしていたから」というておるから、実際あったのが、日本が故意に消滅させたことが、はっきりと言うております。

http://jp.youtube.com/watch?v=vNf9n5jUczY&feature=related
日韓基本条約 4/7