農家呼吸の余地あるを見るべし

明治維新後、紡績業・製糸業などを中心とした日本資本主義のめざましい発展にくらべて、日本農業は、地租改正によって決定づけられた寄生地主側=半封建的生産関係の枠のなかに押しこめられていった。

日清戦争明治32年において全国農家の三分の二は純小作農家、あるいは自小作農家となって、なんらかの形で地主・小作関係に組みこまれ、また日露戦争直前の明治36年には全国耕地の約45パーセントは小作地になっていた。ちなみに、41年の「農事統計」によれば、全国農家総数541万戸のうち、自作農家180万戸・小作農家148万戸・自小作農家212万戸という構成であり、全国喪家の六七パーセントが地主・小作関係のもとにある状態であった。収穫の70〜80%にも達する効率小作料を地主に取られた小作農民は、日常的に飢餓生活をしいられ、再生産はいうにおよばず、生命維持の必要から、劣悪な条件にもかかわらず望ないし出稼ぎ的な賃銀稼ぎを求めざるをえない境遇におかれることになったのである。また、この段階で地主制下の農業と農村とは薩長政府の基盤として構造的に定着されることになり、農民は地粗と地代との二重の収奪を受け、かつ低質告働力の供給源となって想像を絶する苛酷な一生をおくることになった。

日本人の主食を生産する農民自身は、その生産物たる米を十分食することができず、麦・稗・豆類・根菜などとの混食を常食としていた。とくに、稲作に恵まれない山間部の農村では、臨終の枕辺で米粒を入れた竹筒を振ってその昔を開かせていたという話が、つい先代までの体験として老婆の口から語られている。たんなる信仰ではなく、日常的に飢餓状態におかれた農民の、米のおまんまに対する渇望が実感をもって迫ってくる話である。このような状況のもう一つの局面が、女工哀史として語られた農家の子女の出稼ぎ労働であった。農家の未婚の娘たちは、家計票にかぎらず地主へ払う小作料の補填のために、紡績・製糸女工となり、一日十数時間におよぶ肉体消耗的労働とその代償たる低質銀に耐えたのである。じつさい、多くの娘が病に倒れて帰郷し、うら若き生命を奪われた者も多かった。
この二つの局面が高率小作料に帰因する農民の絶対的貧困にもとづくことを認識するならは、女工哀史の内実は、けっして弱年女子労働者の苛烈な搾取の実態にのみあるのではない。飛騨の高山から信州へ糸引きに行った女工の一人は、

ワシは体が弱かったので、信州へ行けば米の飯で養生ができると開いて糸ひきに出ましたが、信州では話の通り米の飯で、ワシは太って帰りました。

と語っている。そこには、長時間でかつ低賃銀の肉体消耗的な労働でさえ、農村における農民の苛酷な農作業を中心とした日常生活よりはなにほどかましな場であることがあきらかにされている。農民の日常が底知れぬ貧困のからくのなかにおかれていたことを如実に物語っているのである。(松本宏氏「地主と支配と農民」より)

日本農民はこの段階で、伝統的な生産物である米の生産を中心に、木棉など商品畑作物との競合に勝った養蚕=桑園を主要な副業とした生産構造を定着させ、地主制の経済的基盤をかためることになった。米が日本人の主食としてもった重要性と同様に、全国で約220万戸(1930年)の養蚕農家が生産した繭を原料として糸に引かれた生糸と血と汗との米は重要輸出商品となってもっとも主要な外貨獲得源となり明治政府の海外侵略のための軍事設備を拡張する不可欠の存在となったのである。(トラの日記から)

感想

苛酷なる租税が日本農業の進歩発達に対する最大の障害というよりも、日本の農業政策において推進された奴隷的小作法が農業の進歩を疎外し続け、小作人の隷従関係を存続させた社会的な構造によるものであろう。これは明治維新政府の若者らの行った農業政策であるが、家父長的な恩情主義がそのまま孝行娘の人身売買の提認までいりたるような家内奴隷的な人間観を持つ日本の伝統的社会構造であったこと考えると一概に維新の若者らを責めるわけにはいくまい。かの開明的文化人である福沢諭吉でさえも「外囲人の皮相諭なれば、遂一辯駁にも及ざることなれども、一連り我農家の直面目を語らんに、右の如く別件の入費を一々計え立てて、百姓の労役までも日雇の賃餞に積り、出る所は斯くの如くにして入る所は斯くの如しと帳面の上にて見れば、農家の立行く可き計算なけれども、是れは表面の数字にして基実は、数字外に農家呼吸の余地あるを見るべし」と小作人には呼吸の余地あると、人間を植物のようなたとえで述べている。

岡勇次郎「日本米穀の将来」に次のように述べている。

米穀海外輸出の特許を令し政府は大に之を勧誘し明治五年正月を以て米一万八千七百石を横浜に於て外商に売買せり之れ我国にて米穀を海外に翰出せる始のなりと(上中古代の事は言はず)爾来年々外商の手を経て輸出せられ海外市場あり較々聲磬を得るに至れり於是米穀輸出業の充分利益あるべき見込立ちしかむ明治十年以後政府は殊と三井物産会社として米穀輸出の廻漕及販売の事を取扱はしめた多き其後明治十九年は到り政府は海外準備金取扱の方法を改定し米穀を輸出して、之を販売し得たる代金は直ちに之を海外公使館に委托して準備金に充てるの制となし益々米穀輸出を奨励せり又明治十八年を以て政府は備荒貯蓄の籾を廃して金貯の法となし貯穀を輪出せしかを仝年頃より一層隆盛を致せり明治二十二年は至りて右準備金の制は廃止せられ共輸出の道は愈々開け輸出米専門の合本会社は内地各所に起り神戸四日市其他に勃興す日本精米会社米穀直輸会社神戸精米会社四日市精米会社等是なり。

上記でみれば、明治維新政府の若者らは米穀を輸出して充分利益を得ることに重点が置かれておることが分かる。