丙寅洋擾とジェネラル・シャーマン号事件

丙寅洋擾とジェネラル・シャーマン号事件


十八世紀のすぐれた地理学者デュ・アルドは、朝鮮の人々について次のように書いている。「彼らは、一般的には品行ただしく、謙虚でかつ温和な性向をそなえており、漢文を解し、学問を愛し、そして音楽と舞踊を楽しむ」と。さらに彼は、朝鮮人のマナーについて「ひじょうによく調整されていて、盗みや姦通などの犯罪を知らず、夜なかでも表門をしめるということはない。どこの国にとっても宿命的であったといわれるべき革命が、この国にも幾度かあったけれども、そしてそれがこの国の人びとの昔日の純真さをいくらか変化させはしたけれども、しかもなお彼らは、いまだに他の諸国民の範型となるべきものを十分に残しもっている」とも述べている。

十八世紀の後半、若干の朝鮮の知識人や宮人が、北京にいた天主教宣教師の影響をうけ、ここに朝鮮の改宗運動が発足した。彼らは、かなりの成果をおさめたが、日ならずして当局の苛酷な反対と迫害をうけるに至った。改宗者の多くは、はげしい拷問のすえ死に至ったが、その信仰はひそかにひろがっていった。一人のフランス人宣教師モーパンは1836年に朝鮮への潜入を強行した。彼は、冬のさなかに、山賊たちの横行する朝鮮の北方辺境地域を突破し、鴨緑江の氷上を渡り、城壁の下水路口をつたって義州域邑内に這いこみ、馬に乗ってソウルに着いたのであった。そのほかの宣教師たちも彼にならって、中国から、あるときは小舟をあやつって、またあるときは陸地をつたって朝鮮に入った。彼らは絶えず変装し、居所をかくして隠密樫に行動し、発見を免れるための多くの手段を準備した。彼らはおのおの場所ごとにちがった姓名を名のり、昼は寝て夜歩き、ときには乞食、ときには行商人、またときには喪服をまとった高級官人にもなった。フラソス人宣教師とそれに同行した改宗者たちは、いずれも常に剣をたずさえていた。
ある時、官憲が一行を襲って改宗者数名を殺害したが、その時フラソス人宣教師アムーベールおよびシャスタンとともに官憲に自首して出た。彼らは投獄され、もっとも苛酷かつ非道な拷問をうけた。彼らは、最終刑執行前に予備的にそれぞれ苔六十六の刑に処せられたが、その刑罰だけでも多くの人びとを死に至らしめたのであった。死刑執行の日、彼らは断首刑場にひき出され、そこで公開の拷問を死刑執行前にうけたが、その光景はとうてい言語で描ききることのできるようなものではなかった。
 アムベールは1839年にこうして死んだ。そしてフェレオールが1843年その後継者として任命された。彼は万事を敢行し、任務遂行のための朝鮮入りを強行、他の者も彼にしたがった。1860年までには、現住民キリスト教徒の数は二万人近くに達した。そしてそのころ、前回よりもいっそうきびしい迫害が始まり、教会は事実上絶滅し、辛うじて三人の宣教師だけが逃亡に成功したが、フランス人を主とする十四人の宣教師が殺害された。
この最後の迫害は政治問題に発展した。北京駐在のプラソス代理公使ドゥ・ベロネは、ひじょうに高圧的かつ高恨な語調で、中国(清)政府に対し、フラソス皇帝陛下は、宣教師を迫害し、殺害したかどにより、朝鮮国王を処罰することを決定した旨を通告した。ベロネは、醇親王に書を送り次のように述べた。「わが皇帝陛下の政府は、このように残忍な不法行為を罰することなく放置することはありえないでしょう。朝鮮国王が不幸なわが同胞を手にかけたその日こそ、彼の治世の最後の日であります。朝鮮国王は、自ら宣教師の最後を宣言したが、今度は代わって私がその最後を厳粛に宣言します。数日中に、わが軍隊は、朝鮮の征服のため進軍するはずであり、わが尊厳なる主権者である皇帝陛下だけこそが、その善良なる意志に基づき、朝鮮国とその空虚なる王位を処分する権利と能力とを保有するものであります」と。
数多くの軍隊をのせたフランスの軍艦七隻は、漢江河口に至り、江華島の要塞を攻撃した。そしてフランス軍江華島海岸に上陸し、江華島城壁に向かって進撃した。フランス軍が城壁に接近すると、多数の現地軍は、城壁の背後から銃砲、弓矢、旋回銃、旧式火縄銃などを浴びせかけた。プラソス軍は、市内を強襲して一隅の住民たちを殺害したのち、その場所を焼き払ってしまった。そして、彼らはさらに前進して、その成果をおし進めようとはかった。朝鮮人たちは計略と遅延策をもってこれに対抗した。
ほかの方面の遠い砦に向かって軍艦を出た百六十名のフランス遠征軍兵士たちは、奇襲に遭ってその大部分が潰滅した。フランス軍は、自分たちの動きにつれて側面から奇襲してくる、不断に増大する現地軍に苦しめられた。数日を経たのち、フランス軍司令官、極東艦隊司令長官海軍少将ローズは、その軍隊に帰艦を命じ、遠征軍は中国へと帰って行った。

日本でも似たようなことが起こっています。明治3年神道の国教化のために廃仏毀釈を行い、仏像、仏具、径巻など沫香くさいものを片っぱしから破壊、破棄し、とりわけ仏像の本山である京都や奈良ではそれは激しかった。学校の便所に付近の地蔵石が用いられ、教師がすすんでその石地蔵の上で用をたし、児童に仏罰の当たらないことを示した京都府下の小学校もあった。寺院の廃合や整理もなされ、奈良の興福寺五重塔が捨て値で売り出されたのも、このころのことである。この神仏分離廃仏毀釈と並行して、神社制度が作られた。それまでの神社は鎮守の森にいたるまで、天皇との距離によって格づけされ、天皇のもとに一元的に統制された。また、氏子調べがなされ、これまでの寺請制度にかわって地域住民を氏子とし、神社が民衆掌握の手段とされた。さらに、従来の民俗伝統的な祝日にかえて、紀元節以下の豊中心の祝祭日が新しく制定されたのである。キリシタン排斥は諸外国公使の抗議にもかかわらず、キリシタン処分を決定し、1868年4月17日に、キリシタン信者の配流とその各藩配分案を布告した。宣教師側の記録によれば二〇ヵ所・三千有余人に及ぶ。キリシタンたちは、この配流を「旅」と呼んだが、この「旅」によって3404人のうち、613人が死亡している。いかに弾圧が苛酷なものであったかがわかる。


ジェネラル・シャーマン号事件

朝鮮は当時未知の国と中国のいる欧米人たには思われていた。だから何か驚くべきものとしていろいろに取り沙汰されるに至った。たとえば、朝鮮では馬の背たけが三フィートであるとか、鶏の尾の長さが三フィートあるとか、王陵は金銀でできているとか、その死体は宝石類で飾られているとか、はては、銀の山やすはらしい鉱物諸資源があるとか、取り沙汰された。そしてこういう噂は、自然と、上海などにたむろしていたいかがわしい国際的投機師たちの、貪欲をそそりたてたのである。こうして、海賊的遠征隊が、この国に向かった。1866年、アメリカのスクーナー胎)ジェネラル・シャーマン号が中国の天津から朝鮮に向かった。この船には船長プレストソ以下、三名のアメリカ人、一名のイギリス人、そして、十九名にのぼるマレー人・中国人の船員が乗っていた。同船には、銃・火薬・密輸品などを積んでいたが、同船が朝鮮に向け出発したのは、平壌にある王陵の略奪をめざしてであったと言われている。同船は大同江深く進入し、同地の地方官憲に停船を命じられた。このジェネラル・シャーマン号のおとずれは大きな興奮をまきおこした。それは、当時朝鮮政府がはげしく反対していたフランスのカトリヅク教団と、この船の来入とが、関係あるものと信ぜられたからであった。当時の朝鮮の摂政すなわち政権掌握者興宣大院君李是応は、外国人の上陸は許すべきでなく、彼らは駆逐されるか殺害されるべきである旨を命令した。平壌の人たちは戦いを準備した。彼らの武器は原始的であった。彼らは「火
箭」(ホワヂョソ)と称する火矢を持っていたが、それは八百フィートも飛ばすことができ、しかも相当な威力をもつものと言われた。軍人たちは、世評では弾丸をも通さないといわれる、幾重にも小鉄板を重ね綴り合わせてつくった龍雲甲胃をよろっていた。射手たちは列をなして並び、若干ではあったが旧式の大砲も待機していた。朝鮮人部隊は、大同江の両岸から船員たちに向けて発砲し、断続的な戦闘は四日間もつづけられた。シャーマン号の銃砲はかなりの効果を発揮したが、しかし、朝鮮側は一人の戦死者に対して交替者は一ダースもあった。しかも大同江の航行に無知であったプレストソ船長は、船を洲に乗り上げて身動きできなくなってしまった。
この数日間の戦闘で、朝鮮側は、大きな戦果をあげることはできなかった。射手や軍人たちが、船に大きな損傷を与えることのできるほど十分に近づけなかったことと、彼らが、船からの銃砲火による死の危険に自らをさらすことを、やがて拒否するようになったからである。彼らは、旧式の武装船、すなわち大砲を装備し薄い鉄板と牛皮で覆った平底船、つま、亀船を活動させた。この船の前部は発砲のときに開き、その後はただちに閉まるようになっていた。しかし、この亀船もこの外国船に損傷を与えることはできなかった。このとき、名を朴という調練士長は一計を案出して、のちながく彼自身を有名にした。彼は三隻の平底船を結び合わせ、それに柴を山と積み、その上に硫黄と硝石をふりかけた。舟は網でしっかりと固着させ、それに火を放って、ジェネラル・シャーマ号に向け江上から流し送った。一回日は何の損害をも与えることはできなかった。このようなトリオが二回日もまた用意されたが、このときは、恐怖心にかられたこのアメリカ船の船員たちが、トリオ船が接近してきたときうまく押し離してしまった。しかしさらに三回目の火船トリオがやってきて、これがついにジェネラル・シャーマ船に火をつけてしまったのである。
シャーマン号の船員たちは、燃えさかる硫黄と硝石の悪臭や煙気のために、ほとんど窒息状態におちいった。彼らは消火につとめたがその努力も空しく、煙気はますます濃くなるばかりであったので、ついに一人また一人と水中にとびこむよりほかはなくなった。彼らは、朝鮮側の軍士たちに捕えられてこんどは舟の中へ放りこまれた。侵入者たちのうちのある者たちは、白旗を掲げ、それを力いっぱい振ったが、それは空しかった。彼らの大部分は、江岸に着くまでにめった切りにされた。