加害者と被害者

参考

「加害者と被害者」

昭和17年春より、一兵士の私は中国山省を中心に中共軍の討伐に寧日なき日を送っておりました。正式の作戦の一つに、労務者確保作戦ともいえるものがありました。

払暁集落を包囲し、農民を一網打尽にし、女性、老人、子どもをのぞき、残った男性全員を上級司令部へ引き渡しました。それが中国人強制連行となり、各地の鉱山で悲劇を生んだとは復員後初めて知りました。

 その作戦は、兵と兵の間隔十メートルぐらい、各人明かり(一升ビンの底をロウソクで焼き切り、逆さまにして中にロウソクを立てる)と石油缶、洗面器などを持ち、ガンガンたたきながら包囲網を縮め、アリの千一匹逃さじとの無情ですさまじいものでした。しかし当時の私たちは、戦争とはこういうもの、と簡単に考えていました。その後シベリア抑留。満四年の強制労働で幾分かは、それまでの償いをしたと考えています。我々は加害者でもあり、被害者でもあったのです。(昭和62年6月17日ある染物自営業者)


「中国人労工確保にかかわって」

昭和十八年になると、労力不足が軍需工場の最重要課題になってきた。私は三菱長崎造船所から同僚三名とその年の四月、華北の中国人労工820名の長崎までの輸送を命ぜられた。北京にある北支労工協会の本部を訪ねると、全国三十二の軍需工場から引率者らがつめかけていた。旅館に待機していると、われわれには滄州に労工引率にゆけとの命であった。
滄州地区の指揮官である日本の大尉に、どうして労工らを捕らえたのかと聞くと、夜うかれ出た青年らを「不良狩り」の名目で、うむをいわせず捕らえたという。・・・・銃剣に囲まれ、細引きで縛られた約五十名を、私が指揮して駅まで約二キロ行進である。見送る者の中には、血走った目で私をにらむもの、母らしいのが手を合わせて哀願するもの――。労工を押し込めた貨車が動き出すと、母たちはプラットホームを両手でたたいて泣いていた。
 こうして集められた労工らを日本の石炭船で下関まで輸送した。下関につくと方針が変わっていて、これら労工は炭鉱へ運ばれ、そこで酷使されたと聞いた。
 社命とはいえ、今でも思い出しては胸がうずく。(昭和62年1月17日、ある元教師)


朝鮮人も炭鉱へ連行」

「中国人労工確保にかかわって」1月17日付)では軍需工場の労力不足充当のための中国人労工が一転して炭鉱労働者に向けられたというがその実態はどうか。韓国慶尚北這出身でいわき市の失対労働者の林潤植(リム・ユソシク)さんは次のように話している。

「昭和十八年五月、二十一歳のとき、?飛行場建設工事″の名目で徴用に応じ、村から六百人とともに日本へ。?飛行場建設″はうそで、常磐炭鉱の前身、いわき市湯本の入山炭鉱へ強制連行され、着いた翌日から一日三交代で働かされた。カゼや頭痛では休めず、落盤死や病死でも朝鮮人には補償がない。飯場は十畳の部屋に十二、三人が生活し、窓には格子がつけられ、日本人の監視つきで自由行動はできなかった」
「麦主体の飯と汁一ばい、タクアソ二、三切れ、過酷な労働に耐えられず逃亡してつかまると、多くの朝鮮人の面前で、カシの棒でなぐられた。食事も与えられず、監視人の暴行で死んだ人、裏山で首つり自殺した人もいた」

 昭和五十九年十月、常磐炭鉱跡地に開館した「いわき市石炭化石館」は常磐炭鉱の歴史や採炭技術、同地方で発掘された化石などが展示されているが、朝鮮人労働者についてはふれていない。これを知った林さんは、「常磐炭田労働者の過半数を占めた約二万人もの朝鮮人に触れた記述が何もない。史実や人の心の痛みから目をそらす、そんな姿勢が今でも変わっていないのがくやしい」となげく。(昭和62年2月21日、ある農業者)