幕藩体制

徳川の時代は権力と権威とが分離していた。公卿は位高くしても禄は少なく、老中は政権を以て大諸侯を御していた。老中は一方で強いように見えるけれども、実際は大諸侯に対して非常に弱い面がある。一方で老中は権力の快感を味わうかと思うと、しかし実際は他方でそれを減殺するようなメカニズムが働いている。中央の命令は非常によく行われていたのだけれども、しかし、それを実際に行使する執政者が跋扈したということは実は幕藩体制においてはなかつた。 体制全体として見れば、権力の配分は平均の妙を得たるものといえる。
「諸侯を制御するの法も亦彼の権力平均対峙競争の政策より外ならず。……藩々相互に睥睨 して相互に動くを得ず。……又内に自家の政務を処するにも権力平均の旨を失はず。例へ ば幕政最上の権は老中の手に握り、参政の若年寄と雖も容易に喙を容るゝを許さず。然る に目付なる者は、老中に属せずして、若年寄支配下に在りながら老中を弾劾するの権を 有し、……又目付の支配下に徒目付、其下に小人目付あり。小人目付は常に徒目付に随従 して事を執る小吏なれども、此の小吏には時として上役の徒目付を差置き直に目付に面し て事を具申し、又徒目付を弾劾するの権あり。又地方に派出する代官又は町奉行附属の与 力同心等は、内々の収入多くして身分不相応の生活を為す者なれども、官吏社会にて等級 甚だ低く体面甚だ卑しく、何万石を支配する代官にても江戸に来れば顔色なく、勘定奉行などへ拝謁する其状は恰も君臣の如し。与力同心も大番組書院番組と称し、武官に属する 者は何らの役得もなくして生計常に寒しと雖も、其地位は遥に町方の上流に位して自から 得々たる可し。凡そ幕府の政務組織に付き此種の細件を計れば、枚挙に遑あらず。いよいよ之を詳にしていよいよ平均主義の緻密周到なるを見るのみ。」(福沢諭吉

「どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張っている。全行政機構が複数制(つまり合議制)であるばかりでなく、完全に是認されたマキアヴェリズムの原則に基づいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度の最も入念な体制が当地では細かな点についても、精密かつ完全に発達している」(幕末に日本に滞在した初代英国公使のラザフォード・オルコック 回想録『大君の都』)
幕藩体制においては、将軍もまた自由な人格ではなかったのです。