盧溝橋事件の真相

そもそも北支の如き、国際的に類例のないほどに、複雑にして危険なる地域に、浅慮にして功名心に富む軍人(軍隊)の活動を、野放しにすることほど無謀のことはない。

他国の軍隊が中国にやってきてその武威を発揚し、中国の土地で頻繁に軍事演習を行うこと自体が重要な挑発行為であり、中国の領土と主権に対する侵犯と侮蔑行為で、いついかなる事変にも進展しうる元凶である。

日本軍は特に夜をえらんで演習し、中国軍の兵営や城門、幹部の邸宅まで実地に調査し、いつでも襲撃できる準備をしていた。これは一層中国の抗日意識を刺激しました演習も実弾をもって毎夜のようにおこなわれた(佐藤賢了東条英機と太平洋戦争』P63)。

七日の夜も日本軍は歩兵砲まで持ち出して演習した。十時すぎ第七中隊の清水中隊長が演習を中止しょうとした時、中国軍陣地から数発の小銃弾とんできたと直感した。(解説 直感とは主観的推測の域を出んと思うが、つまりじっさい銃弾がとんできたという客観的な証拠はない)そして兵を点呼すると、一名不足して間もなく帰ってきたが、清水節郎隊長は「断然膺懲るに決し」て、豊台兵営の大隊長に報告した。大隊長は部隊をひきいて急行し、宛平県城内の中国軍の隊長と交渉を命じた。中国軍の射撃というが、日本軍は一人も死傷者がない、中国軍も同様。しかも行方不明の兵はまもなく帰隊している。

1944年、つまり慮溝橋事件の七年後に首相に就任した近衛文麿は「一体盧溝橋事件というものが、今もって真相がはっきりしない。どちらが先に手を出したかといえば、どうもこちらの方が怪しいと思う」と手記にかいている。

この事件はいろいろといわれておるが、茂川秀和少佐が中国人学生をして両軍に向かって発砲させたものです。

近衛内閣は成立して間もない際で、事態を急速に収拾せんとして、統帥部の要求により、直ちに三個師団の増兵し、さらにこれを五個師団に増加し、日本の強硬なる決意なるものを繰りかえし、現地の停戦を知りながら今度は事件ではなく事変あるとした。政府は不様大方針を決しながら、事件を拡大して行った。すでに政府も軍も「支那膺懲の聖戦」を宣言し、近衛首相は東亜「新秩序」の建設を提案した。かようになればもはや、これを阻止する何物もない。支那の戦争は、結局氷定河の線で食い止めることができず、日支の全面戦争に展開した。

この事件についての天皇の感想

昭和天皇独自録』では、日中戦争の勃発前後の状況について、次のように書かれている。十二年の初夏の頃、北支における日支間の対立は愈愈先鋭化し、宋子文支配下の穏警団が天津を包囲した。この軍隊は名は穏警団に過ぎないが、その実、新式武装を施した精鋭な宋一家の私兵的なものである。
日支関係は正に一触即発の状況であったから私は何としても、蒋介石と妥協しようと思い、杉山元陸軍大臣閑院宮参謀総長とを呼んだ。丁度この頃北満の国境に乾岔子事件が起こっていたので、世間へはこの為に呼んだものと「カムフラージ」されたが、実は対支意見わ求める為に呼んだのである。
もし陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛文麿に話して、蒋介石と妥協させる考えであった。これは満州は田舎であるから事件がおこつても大したことはないが、天津北京で起きると必ず英米の干渉がひどくなり彼我衝突の虞があると思ったからである。
当時参謀本部は事実石原莞爾が采配を振るっていた。参謀総長陸軍大臣の将来の見通しは、天津で一撃を加えれば事件は一ヶ月内に終わるというのであった。これで暗に私の意見とは違っていることが判ったので、遺憾ながら妥協の事は言い出せなかった。
かかる危機に際して蘆溝橋事件が起こったのである。之は支那の方から仕掛けたとは思わぬ、つまらぬ争いから起こったと思う。