盧溝橋事件の真相2

十二年春頃からは、度々、中国の軍隊と天津軍とが、演習其地のとき小競り合いを演じ他がその度に双方の指導者の鎮撫に依って事なきを得た。然るに十二年七月七日夜盧溝橋上から日華両軍に向かって放たれた二発の小銃弾は、終両軍の大境療な衝突を惹起し、運命の日華事変の端緒となった。

中国側は之を以て日本の発砲であると主張し、日本側は中国側の挑戦だと断定した。然し私はその何れも真実でないことを知って居る。

 私はこの日、徳王の招待を受けで綏遠事変の慰霊祭に参列のため蒙古の徳化に在った。時偶々関東軍から電報があって連絡のため、天津に到れとの命令を受けたので、飛行機で天津に向って出発し、正午駐屯軍司令部に著した。その夜天津の芙蓉館の一室で茂川秀和少佐に会った。

 茂川少佐はもと私と一緒に参謀本部に勤務したことがあり、常時、巽東政権の軍事顧問であった。

「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。丁度あの晩、盧溝橋を隔て、日本軍の一ケ大大隊と中国側の一団が各々夜間演習をして居たので、之を知った共産系の学生が双方に向って聾砲し日華両軍の衝突を惹き起せたのです」と。

私は茂川氏が平素、北平の共産党の学生と親交があったことを知って居るので

「やらせた元兇は君だろう」

と語った。氏は顔を赤らめて之を肯定した。(茂川少佐のある同僚の手記)