江華島事件の日本の対応

1875年9月江華島事件が起こると日本政府は、この問題の処理においては朝鮮の宗主国であった清国に責任を問い、清国が朝鮮政府の行為について責任を負うことを拒絶した場合に初めて日本政府が行動に出た方がよいと言
う参議木戸孝允の意見を受入れ、朝鮮に全権大使を派遣するに先んじて清国に対清交渉使節を派遣することを決めた。そこで外務少輔森有礼特命全権公使に任命され、1875年11月24日、日本を山発して1876年1月5日北京に到着た。森は北京に着くとまず、北京駐在イギリス公使のウェード(Wade)に会って、日本政府は、朝鮮に対して平和的に使節を派遣し、朝鮮を説得しようとしているとの意思を伝えて、清国政府が朝鮮政府に対して影響力を行使し、日本の国交開始要求を受諾してもらえるようウェードが総理街門を動かしてくれることを頼んだ。しかし、ウェードは、雲南事件が解決されていない状況で総理街門にそのような助言をするのは困難であるとの理由で森の提案を矩絶した。
ウェードを通じて清国を説得しようとした計画が失敗すると森は、清凶との直談判に臨んだ。1876年1月10日、森は書記官の鄭永寧・法制局御用掛竹添進一郎らをつれて総理街門を訪問し、軍機大臣兵部尚書沈桂j}.工部尚子号
の毛利照以下諸大臣と会談した。日本側は、対朝鮮交渉の過程と全権派遣の趣旨を)Jßぺたを提出した後、まず森公使が清朝宗属関係について質問した。すると沈桂奈は、「朝鮮国ハ裁国ノ属管礼部街門ニ隷スルj好ニシテ...政教禁令ノ如キ総テ彼レノ自カラ為スニ任カスJと答えた。これに「政教禁礼既ニ其国ノ自カラ為スニ任カス其ノ外国ニ対スル事ニ至ッテハ如何」との森の質問に沈は、「外国ト交ル如キモ彼ノ自由ニ任セテ中国之ニ関セサルナリ乃チ朝鮮ノ如キ我ガ属国タルヲ以テ我ガ貴国ト親睦ナル如ク彼ノ貴国ト交ルモ猶然ラン事ヲ期望ス」と明白に答えた。また、冊封について、それが清国の意、によるものかあるいは属国の請願によるものかの質問に対して沈は、
「我ヨリ撰ミテ立ツルニ非ス彼ノ請ニ従テ珊封スルノミ我属国皆然リ」と冊封が属国の要請によって行われていることを明らかにした。森は、外国が朝鮮に武力を加えた場合、清国の取る処置について開くと、沈は、条約に基づいて処理すべきと答えたが、これに対し森が、各国との条約文の中に属国についての条文があるのかと聞くと、沈は、「条約文中是ノ明文アル事ナシト雌モ属国ヲ侵越スルコトハ情理上ニ於テ作シ得サルノ事ナリ」と近代国際法上には通用しない論理をもって答えたのである。ここまでの森の質問は、朝鮮問題に入る前の清国の属国に対する
基本的場を確かめるためのものであって、朝鮮問題で清国側を論理的に攻めるための事前工作であったとも言えよう。そして森は、いよいよ本論に入って「若シ不幸ニシテ裁ト朝鮮ト事有ルニ至リ我勝チ彼敗シ我兵陸に上リ其戦地ニ於ケル勢ヒすヲ得シハ寸ヲ占メ尺ヲ得レハ則尺ニ拠ラサルヲ得ス其時ニ至ッテハ貴国ノ之ヲ祝ル知ラス何等
ノ観を何倣スヤ」と日本兵が朝鮮の領土を占領した場合における清国の態度について答することを求めた上、「若シ今日此席ニ於テ凹決ヲ得サルハ明後12日ヲ期シ其回決スル所ヲ書ニシ以テ之ヲ送リ示サノレ」ことを提案したが、これに対して沈は、恭親王の意見を聞いて回答することやその期日を13日にす