西原亀三4

ある日、青森連隊長をしていた土井市之進という陸軍大佐が、朝鮮を通り抜けて支那へ行った。土井大佐は寺内さんとは親戚の仲である。それが京城を通りながら、寺内さんに挨拶もせずに行ってしまった。坂西大佐からこのことを聞いた寺内さんは、

「あいつら何かたいへんなことをやりおる」といわれた。

 日本が哀世凱の帝制を阻止した口実は国内に動乱が起こるということにあった。支那は動乱は起こらぬといった。事実支那側のいう通り何事もなかった。支那人は共和政治を好まぬ。ことに官吏・上層階級は帝制に深いあこがれを持っていた。袁の声望も盛んなもので、当然反対である南方革命派も手の出しようがなかった。起こらないのが当然なのである。それでは筋書通りに運ばない。

そこで日本から行って騒動を起こさせたのである。いや、むしろ日本白身が起こしたという方が当たっているであろう。土井大佐などはこの火付役の発頭人で、馬賊の大将パプチャブを引張り出しに行ったのである。朝鮮からはまさに対岸の火災で、この大火付の有様が手に取るごとく分かるのである。

最初に起こった暴動は陳其美軍の上海機器局占領である。.これにはこういういきさつがあったのだ。

 日本は支那撹乱の手始めに、この陳其美に、上海にいる支那の軍艦を革命派の手に買いとらせるという約束で、たしか三百万円の金(この金は久原氏が提供したー原注)を陳其美に渡した。その軍艦は呉淞で受取るという約束になっていた。そこで海軍の予備軍人を大勢駆り集めて舞鶴から船を出した。その船が呉淞に行って見ると問題の軍艦が港から出て来た。こちらへ来るのかと思うと、さっさと針路を東北に転じて逃げてしまった。受取りに行った連中は納まらず、その腹癒せに呉淞に残っていた駆逐艦を分捕ろうとして襲撃したが失敗し、全部捕虜になってしまった。軍艦買収に失敗した陳は、兵を起こして機器局占領をやったりしたが、まもなく日本人の手で殺された。これはわたしが見たわけでもなく、調べたわけでもないからくわしいことは知らないけれど、あったことなのだ。

ある時、寺内さんはポロポロ浜をこぼして、

「大隈内閣のやることは一々東洋永遠の平和の打ちこわしだ。東洋平和を御軫念あらせられた先帝に対し、まことに申しわけがない。領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」

といって嘆かれた。

上記は西原亀三の夢70余年からのものです。

感想

西原亀三は当時の朝鮮総督寺内大将の依頼で、満州華北の実情を調査しています。つまりいたるところに事件を作り上げ、国民にはそれをねじまげて中国の排日侮日と大宣伝し、国民の中国侵略熱を煽り、外交に利用したのである。

謀略をもって事件を作り上げ上層部に追認させるやりかたで、軍事規律にも罰せられない日本独特な侵略の祖形を見ることができます。

寺内さんはポロポロ浜をこぼして「東洋平和の御軫念」とは領土を侵略で増やすことで、当時の実行した国指導者にも「侵略」という意思を持っておったことが察せられます。

舞鶴とは日本の舞鶴港で、海軍の予備軍人とは日本人のことであろう。

寺内総督は1910年の日韓併合の後、1916年まで朝鮮総督を務めた。この時代には憲兵が大きな力を持って武断政治を起こった。

 陳其美は日本留学生、東京で中国革命同盟会に参加し、以来孫文の股肱の一人となった。帰国後、上海で革命を鼓吹し、辛亥革命に当たっては上海独立を推進し、推されて上海都督となった。しかし第二革命の際に追われて日本に亡命、ついでふたたび上海に帰り、反衷運動に携わっていた最中に暗殺された。