パール・バック女史 日本の人々に

パール・バック女史は宣教師アンドリウを父としアメリカの母の肖像であるケアリを母として、中国で育ち、中国の土地利用の研究者で知られるロシング・バック教授に嫁します。女史は東洋の文化と西洋の文化の間の境遇にあり、彼女の作品からみられるように、深い見識と豊な感覚の持ち主です。


下記は彼女が、昭和二十年(一九四五年)、すなわち終戦の年の秋、「毎日新間」紙上に「日本の人々に」と題して寄せた文章からの抜抄です。

「民衆が自由で独立的で自治的である国は如何なる国でもつねに善なる人々と悪なる人々との間に闘争の行われる国である。もしこの闘争が存在しないならそれは暴君が支配して善き人々が力を失っていることを意味する」

「物事を合理的に考える智的な、勤勉な一般の人間というものは自分に発言権を興えないような政府が長期にわたって耐え忍ぶことはできないものだ。彼は自分の運命が独裁者の手に落ちていると知ったとき、一切の感覚をもって、来るべき危険を感じとり、嗅ぎ付ける」

「人々が白かちの創造力・発明力、表現力を発展させてゆけるのは、ただ自治の下においてのみである。但し邪悪に対する永遠の闘争をつづけてゆく善良なる人々にとって自由は常に責任を伴ってくるものだ。日本はもちろんのこと、その他世界のいずれの国の善なる人々にとっても・現在はなお何らの休息・何らの平和は存在し得ない。彼らは自からの眼を覚まして活動せねばならぬ。どこの国民にしても、全体の中にどこかに善なる者がいるのであるから、国民すべてを一概にとどめることはできない。咎め得るもの、咎めなけれならぬものは、いずれの国にあっても、悪に対して善がこれを監視せず、これと闘争しないということである」

「永遠監視の眼は、言論の自由という問題に謝して終始間断なく注がれていなければならない。…‥善なる人々は他人の声を黙らせようとは欲せず、すべての人に対して自由を許容せんと欲する。彼らは完全な真理を把握しているのは自分たちだというほど慢心してはいない。すべてのものが自由に物をいうことを許されている以上、悪なる人々もまた発言するであろう。しかし善なる人々の声は悪なる人々の声よりも数多いはずであり、一段と明瞭なはずである。このことを善なる人々は自からの責務として認めなければならぬ。何故なら自由というものは真の自由でなければならず、自由が或る一部の人によって行使されて、他のものによっては行使され得ぬということは、あり得べきことではないからである」

「日本やドイツの善なる人々にして万一にも自由を享受し得てしかも責任を伴わずに生活のできるような国を夢想しているとすれば、彼らはその空中楼閣的な夢から呼び覚まされなければならぬ。……日本の善なる人々よ、あなた方は安閑として身体を横たえて眠ることはできない。あなた方は一時間の休息さえとることはできない。何故なら善なる人々はいたるところあなた方のカ、あなた方の周到な要心、あなた方の決断が彼らのそれに加えられることを必要としているからだ」

近代市民社会の政治機構としてデモクラシーが自明の理として信奉され、生活感情のなかまでしみこんでいる文化の伝統に立って、それとは正反対な思想傾向の復活強化が大胆不敵、傍若無人に行われてきたところの東海君主国の我々にデモクラシーとは人々にいかなる心構えを要請するものであるかを教えることにかけては、このパール・バック女史は、まず選りぬきの適格者であり、最も望ましい人物に属すると思う。

パール・バック女史の場合は主権在民のタテマエならそれなりに、主権者たる国民の見識の高さにより依存し女史がいうておることは十分理解できます。しかし、日本の場合は、絶対的な権力者と無権利な被支配者、君臣、主従の組み合わせというタテマエでできている社会ですので、真理とはそれが客観的に妥当な結論なるが故に真理とされるのではなく、真理の源はお上の権威にあるとされ、物事を合理的に考える傾向からして異端視されるような仕組みの社会では、合議制を取ること自体すでに止むを得ざる害悪に属するようになります。客観的なデータにもとづき、合理的な判断にもとづく結論も、たまたま権威の座にあるものの意に適うことによってのみ正しいとされ、善とされるに過ぎません。そこでは善とは、つまり権威につくということであり、ときには権威を笠にきることさえある一方、権威に帰属しないことがそのまま悪に通じ、しばしば悪の筆頭におかれる。

したがって、近代社会の風土にあっては、パール・バック女史が言われる「善が悪に対して闘う」ということは、日本でははじめから場ちがいなのであり、非合理主義、非伝統主義的な考え方からの脱却と権威主義や事大主義的な虚世哲学への批判なくしては、パール・バック女史が言われるようなことはできないです。

しかしながら短い文章であるので、彼女の経験からきた呼びかけは鋭く核心をついているかを読みとらんがために補足としてのもので、その好意にそむくいわれとはなるまいと思う。