西原亀三3

北京に着いたのは六月二十三日であった。北京ホテルにs宿泊し、紹介状をもらている諸家を訪問して、状況を聞き意見を聞いた。まず在支武官の斎藤少将は昂然として語った。

 「ヨーロッパ戦争の絶好のこの機会に、日本は長江沿岸を撹乱する。おたがいの戦争に狂奔している欧州諸国は、兵を出してこれを鎮定する余裕がない。そこでその鎮定を日本が引き受ける。そして正正堂々正義の名において支那を統一する。それは四師団の兵があれば十分だ」と、

前から読めてはいたが、現に中国各地に起こっている革命騒動も、まったく日本の火付けによるものだということがはっきりした。

上記は西原亀三の夢70余年からのものです。

感想

日本の軍人であるそれも少将の言葉です。

なんと日本の少将とあろうものが、こんな単純なことで行動していたことがよく分かるくだりです。

この単純さの心情の表れが張作霖の爆破や満州事変につながったであろうことは察するにはあまりある。

つまり中国での騒乱の大きな原因が日本の侵略欲によるもので、西原亀三もさすがに彼に反論し「暗に軍人の単純を戒めておいた」というております。

「満蒙における日本の特殊地位」を守ろうとし日本が戦争をおこしたというのだが、その「満蒙における特殊地位」とは、日本の清国侵略の獲物のことである。

侵略の獲物を守るために、重ねて本来の持主に戦争をしかけるのは、重ね重ねの侵略戦争ではないかと思う。



1921年米国によって開かれたワシントン会議では、たちまちこれがひっくり返されてしまい、いわゆる九カ国条約によって中国の門戸開放・機会均等が強調され、山東における日本の特殊権益が否認され、さらにワシントン・ロンドン両会議における海軍軍縮条約によって日本の国防力は対米・対英五・五・三の劣勢にしぼられてしまった。

 結局日本は列国から侵略者としての焼き印をおされ、その侵略の足場と武器とをうばわれてしまったのである。

 軍閥ばっこの日本がこれでおさまるわけはなく、その後の日本ではこれをはね返す準備が一生懸命に進められた。それが満州で爆発し、やがて上海に飛火して支那事変となってしまった。支那事変なくして太平洋戦争はない。要するに日本今日の悲劇は仲よく 大隈内閣はも一つ矢つぎ早に最悪の種蒔きをした。それは袁世凱帝制問題への大干渉である。

 衰世軌はさきに宣統三年第一革命の時北京に内閣を組織し、巧みに清朝と革命派とを調停して宣統帝を退位せしめ、中華民国を組織して臨時大総統となり、民国二(大正二)年正式に大総統となった。そしの年クーデターに成功して国民党を解散せしむるに及び、自ら皇帝となり、帝制を布こうとした。それについて日本の意向を聞くため、駐日公使陸宗輿をして大隈首相の内意を叩かせたのであるが、この時大隈首相はすこぶる無雑作に袁の帝制に賛意を表し、例の長広舌を振るってシナ二千年の歴史を語り、共和政治の国情に通さない所以まで講釈して、激励のことばさえ与えたというのである。この報告を受けた袁世凱が、すっかり気をよくして、帝制準備に急いだことはいうまでもない。

 ところが日本国内には袁の帝制に反対する空気が濃厚で、ことに対支聯合会の一派は、その急先鋒となって盛んに反対運動を起こし、閣僚中同志会所属の河野・箕浦・武富氏等を通じて反対意見を進言し、この機会に東方問題を解決しょうとした。

その方案として、

第一 支那は現状のままにして、その政治の指導権を日本に収むること

第二 満蒙を割譲せしめて支那本部のみを独立せしめ、その指導権を我に収むること

第三 愛新溥儀の後裔を立てて満蒙王となし、これを日本の保護の下に置き、一方支那本部のみを別に独立せしめてこれが政治の指導権も亦日本に収むること

という、大体三つの支那処分案の中、いずれかに決しょうというのである。これが大隈首相の意を動かした。

上記は西原亀三の夢70余年からのものです。

感想

1931年日本が起した自己自演の満州事変で満州国を作ったのは、一朝一夕の思いつきではなく、20年も前からの陰謀がしだいに成長し、かつ時期を得たからであろう。 すべき中国と喧嘩してしまった当然の報いである。

寺内内閣の時、一石一石に日支親善・東洋永遠の平和の祈豊こめて、重ねて行った賽の河原の石積は、政権に飢えた青鬼や、侵略を好む赤鬼どもによって突きくずされてしまいそのあとにくり広げられたのが敗戦日本今日の地獄絵である。

上記は西原亀三の夢70余年からのものです。


帰りなんいざ

田園まさに荒れんと・・・・・

結びの言葉

(西原亀三 戦争を逃避して丹波の奥)