張作霜

田中義一首相は、日露戦争直後満州軍参謀として情報収集に任にあたっていました。奉天会戦のときにロシア側のスパイとして張作霜が憲兵隊に逮捕され殺されそうになりました。このとき、田中義一は児玉層参謀長に嘆願して張を助けます。

張は田中義一の後ろ盾により、満州の実力者にのしあがり、日本の権益も拡張していくのが田中義一首相の満州政策となっておりました。

1925年11月、満州を支配する軍閥張作霧が部下の郭松齢の反乱によって打倒されそうになったときがありました。

田中義一首相は、張を日本の満州利権の擁護者としていたので、満州に駐屯している日本軍は、張をまもるために、中立を装いながら実は郭軍に圧迫を加えます。

その当時中国では、蒋介石を総司令令とする国民革命軍が、各地に割拠する軍閥を打倒し、全国を統一するための戦争を、勝利のうちに進めていた。日本政府は中国がわの抗議を無視して、1927年五月、七月、28年四月、五月の四回にわたって兵を山東省に派遣します。

この日本の出兵は、当然、中国の政府および庶民らのはげしい抗議をまきおこした。満州を本拠とする軍閥張作霜も日本の意のままには行動しなくなった。そこで関東軍の将校の一部は、軍の工兵を使用して、二八年六月、張作霧の乗っていた列車を爆破して彼を殺します。