2015-01-01から1年間の記事一覧

薩邸事件略記 落合直亮の手記

薩邸事件略記 小島滿將、落合直亮、權田直助等ハ同主義ノ爲メニ無二ノ親友ナリ、常ニ往來シテ朝家ノ衰頽ヲ歎キ、幕府ノ専横、外夷ノ跋扈ヲ怒リ如何ニシテカ王政ニ復シ皇威ヲ海外ニ輝カサシメムト日夜苦慮スト雖モ微力宿意ヲ達スル期トテハナカリケリ。 慶応…

西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡

西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡です(慶応4年1月1日条)。 『江戸におひて諸方え浪士相起、動亂に及候趣に被相聞候間、必、諸方え義擧いたし候事かと被相察申候。京師におひても相響候趣と被相聞爰許にて壮士の者暴發不致様御達御座候得共、いまだ譯も不相分、…

江戸城放火事件の真相

江戸城放火事件の真相史談会速記禄同席:市来四郎・岡谷重実・寺師宗徳・沢度広孝市来君 八官町に大輪田と云ふ鰻屋がありました。其所は乱暴仲間の面 々の散財所で、其所に婆が明治二三年頃まで居りました、私は行った 事がある、其婆が丁寧に話したことがあ…

大久保と西郷の意見書

憤怒の書状 越えて十八日、内府は大阪から、時事について左の書状〔注一〕を上がった。臣慶喜、不肖の身をもって、従来無渝の寵恩を蒙り奉り、恐感悚戴の至りに堪え奉らず。及ばずながら夙夜寝食を安んぜず、苦心焦慮、宇内の形勢を熟察仕り、政権一途に出で…

江戸薩摩屋敷焼失事件の真相

(落合直亮氏の口述) 「一体此間突然思起しましたが、右鹿児島邸に集りましたの は其際に及んで出来たので御坐りますが、其集りました同志の申合せは一朝一夕の事では無くして、年来相往来し、相計って居りましたところの結果が、右の一挙に及びましたので…

吉井幸輔書簡

爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に…

大政奉還と公議政体

>慶喜が主導してすんなり近代化ができたという根拠は? 旧幕府派との戦争は回避され、江戸侵攻も行われず、江戸の住民の50万人が逃げ出す混乱もなかった。近代化された海軍も温存されて、列強国がつけいる隙はなくなり、イギリス指導の薩長とちがい、広く…

小御所会議

この日京都の御所において薩摩藩を主軸とする政変が勃発し、岩倉具視が画策した王政復古の宣言によって幕府の他旧来の摂関制度などが廃絶され、新政府の発足が決定されると共に総裁・議定・参与の三職の設置が決まった。同日夜、参内した公卿・大名・諸藩士…

大政奉還

>私は徳川慶喜公が愚かだったとは思ってはいません。 近代化もしていたでしょう。けれども、その装備に優れた徳川軍は、薩長を中心とする軍に敗れたのです。 それより強い欧米各国の軍、そして国家規模の大きい清国軍に、徳川政府軍が勝てたとは考えられま…

米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代

次の文章は民俗学者柳田国男が1954年に著したものである。 1878年(明治11年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明…

井上馨の条約改正

1854年2月、ペリーが軍艦7隻をひきいて.再び来航する。すでに幕府はオランダルートを通じて情報をしっかり集めていた結果、現在アジアの現状を冷静に受け止め、すでに開国の万針を決めていた。問題はいかに有利な条件で開国を開くかにあった。開国に関して…

伊藤 博文

1887(明治20)年の今日(4月20日)、首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された。 伊藤 博文は、明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長そして、わが地元である兵庫…

維新政府とイギリス

明治41年7月に、グラバーは外国人としては異例の勲二奪旭日章をうけます。 伊藤博文、井上磐の連名になる叙勲申請書草案である「維新前に於けるテー・ビー・グラバー事跡概要」に次のように明確に述べられている。 「グラバが薩長二藩のために尽くしたる…

黒田長官大砲事件

黒田長官大砲事件 明治9年(1876)7月30日、祝津沖合を航行中の時の北海道長官、黒田清隆が乗った開拓使船「玄武丸」が、実弾の射撃試験を行ったのである。 ところが、その標的である赤岩の岩頭を外れ、祝津村民、斎藤清之介氏の漁舎(現在の祝津3丁目178番地…

明治維新 征韓論

明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議にお 明治初年、政権の中枢で征韓論を首唱したのは木戸孝允であるが、この征韓論をいわば日本中を征韓論で熱狂させる役割を果したのが佐田白茅で…

明治維新 米輸出

維新以来、明治32年まで日本米を輸出して外貨を稼いでいたんだよ。 農村部・都市部ともに米食の割合が増えていく。都市部では米のみが多かったが、農村でも麦や雑穀との混合が多いものの、米の割合が増えていった。そして人口の増加と1人あたり米消費量が著…

神功皇后の三韓征伐

戦前(敗戦までの戦中を含む)の教科書では、神話をそのまま歴史として教えていた、とよく言われる。これは、確かに間違いではないのだが、正確な表現とも言いがたい。 まだ国定化される前の、初期の段階の教科書では、確かにほとんど記紀のダイジェスト版の…

朝鮮と日本

日清戦争は、日本と清国との間の戦争ですが、開戦の理由は、朝鮮への影響力をめぐっての当時の両国の関係にあり、開戦時の戦場も朝鮮国内でした。1894年というタイミングで日清戦争が勃発した原因を理解するためには、当時の朝鮮をめぐる状況そのものを再確…

五か条の誓文

五か条の誓文 ごかじょうのせいもん維新政府の政治基本方針。1868年(慶応4)3月14日、明治天皇が紫宸殿(ししんでん)で、公卿(くぎょう)・諸侯・文武百官を率い、天地神明に誓う形式で発表した。「一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ。一、上下(しょう…

国威宣布ノ宸翰

国威宣布の宸翰 『五箇条の御誓文』が出された1868(慶應4)年3月14日、天皇自身の信条を全臣民に認識させる目的で「国威宣布ノ宸翰(しんかん=天皇直筆の文書。宸筆・親翰とも)」が発表された。 国威宣布ノ宸翰朕幼弱を以て猝(には)かに大統を…

維新の目的

維新の大目的は、世界の情勢を睨みながら、「世界万国と並立する」ことが出来る新国家の建設です。つまり「宇内之大勢」に追いつくことであり、欧米列強の世界跳梁という新しい時代情勢の中で「皇国」もって「世界万国と対峙する」ことです。同年1月の「賞典…

日本の退化

>結局は天皇を神様に祭りあげることにより、日本国の維持ができんようなる。最後には天皇が神様になられ、日本は潰れてしもたんじゃよ!動物は進化しないでいると、いずれは絶滅する危機に陥ります。国際社会は変化し発達しつつある。その基礎にある国その…

木戸孝允の征韓論

木戸は、明治元年の暮から翌2年の正月にかけて盟友で軍事の元締めを精力的に勤める大村益次郎に盛んに「征韓論士を説いて、賛同を得ていた。大村に説/仁「征韓論上の動機も不満足な現状打破の方策としてであり戊辰戦争終了以後却って益々曖昧に成り行くト「…

明治政府と清国との交渉

当時の日本は朝鮮を清国の属国であることを認めていたので、朝鮮に罪を鳴らし、兵を動かすことは、朝鮮が清国に助けを求め、日本は清国と火蓋を切り、戦端を開くことを恐れていたのです。 明治政府は清国と戦争するための兵力や装備などが整えるはずがない。…

征韓

>意味不明だね。明治政府が 、成立時点から征韓を狙っていたというのは、御伽噺だと言うこと。・・・・ >まあ、明治政府が朝鮮の経済的価値をどの程度踏んでいたか。その根拠となる史料を提示して説明することだね。10年くらい勉強すれば如何。 征韓の目…

侵略という言葉

>欧米列強の奴隷となっては、民度の高さも役には立ちません。思うのですが、戦後アメリカが日本を占領したときに、ほとんどの国民はアメリカに対して反感をもったものは少なかったようです。かえって喜んだ人々の方がおおかったようです。日本人は海外から…

江華島事件の日本の対応

1875年9月江華島事件が起こると日本政府は、この問題の処理においては朝鮮の宗主国であった清国に責任を問い、清国が朝鮮政府の行為について責任を負うことを拒絶した場合に初めて日本政府が行動に出た方がよいと言 う参議木戸孝允の意見を受入れ、朝鮮に全…

日清戦争が起こった理由

>日清戦争が起こった理由は簡単に書くと日本が朝鮮を支配するためですか? 明治27年2月、朝鮮のコブ郡の郡守の横暴から農民の氾濫が発生し、出動した政府軍と戦闘を戦いぬき、5月31日には全羅道全域に派生します。恐れをなした政府は清国に軍隊の出兵を要請…

明治維新からの退化

>桜田門外の変の時、勝海舟はとうとうこれで徳川幕府も終わりだと思ったそうです。徳川家康公の作った基本設計が古くなっていて(江戸時代初期には、それは 見事に機能していました。しかし、いくら家康公でも数百年後の事は予測できません。というより、糸…

天皇について

>中国では天下を統一すると自分が皇帝になりましたが、日本では関白や将軍になっていたのは、日本は島国で、天皇は天照大御神の子孫だと言っていたからですか。 日本国民は袋のネズミのようなもので、外から入ってくることもむずかしいが、いざという場合に…