大政奉還と公議政体

慶喜が主導してすんなり近代化ができたという根拠は?

旧幕府派との戦争は回避され、江戸侵攻も行われず、江戸の住民の50万人が逃げ出す混乱もなかった。近代化された海軍も温存されて、列強国がつけいる隙はなくなり、イギリス指導の薩長とちがい、広く列強との対等な国として運営ができた。諸藩が競った近代化政策より、日本中大いに近代化が進み、アメリカの資本より鉄道ができれば、思想的にも近代国の思想を吸収する場が自然に多くなり、維新政府が推進した臣民思想政策よりも近代化が進む。政体については、大政奉還と公議政体樹立を決意した慶喜は、顧問の西周憲法草案をつくらせています。その憲法草案は、慶喜の独裁を狙っておらず、アメリカ合衆国の連邦制のような三権分立と幅広い地方自治をうたっており、その将来には、各地方の国柄を活かした豊かな近代国家の姿も垣間見ることができる。
このとき、公議政体が樹立されていれば、天皇親政は行われず、象徴的な天皇の伝統は継承され、維新政府のように天皇の御名を利用して巧妙に政治責任を回避し、国民の権利を制限した上で近代化を強力に推し進めたようなこともなかった。つまり近代化に伴う自由民権の運動が大衆の政治的意識の革新をうながし始め民主的な自覚が芽生えると薩長政財閥を強化するために、国内的には人権尊重のごときは悪害と見て、警察力で弾圧した。だから、その国内的矛盾を常に国外に国民を向けさせねばならなかった。維新政府の領土膨張政策はこのような要因があったからからだ。すでに近代化の芽は幕末から生じていたから、公議政体下でも緩急の差はあれ、近代化は進んだのである。