明治維新からの退化

桜田門外の変の時、勝海舟はとうとうこれで徳川幕府も終わりだと思ったそうです。徳川家康公の作った基本設計が古くなっていて(江戸時代初期には、それは 見事に機能していました。しかし、いくら家康公でも数百年後の事は予測できません。というより、糸を一本引き抜くようにすれば、簡単に壊れるように幕藩体 制を作ってあったと言う人もいます。)、新しい時代に適応できず、起こったのが明治維新だったのだと思っています。
基本設計が古い構造物は、完全に壊して最初から作り直すしかないのです。

恐竜が絶滅しなかったら、知的生命に進化していたと言う人がいます。(ディノサウロイド)私はどうもこれには疑問があります。
基本設計が人類とかなり異なり、むしろ肉体能力が極限まで進化し、恐竜は鳥に進化しました。
明治維新が起こらなくても、数十年くらいは日本は発展したかもしれない。


時代は、時とともに進化せず、退化に向かうと、恐竜の絶滅に教わるまでもないです。
たとえば、明治以降、天皇に対する敬礼も、形式を強めながら、退化に向かっています。
明治7年、天皇のお通りの時、平伏しなくてよい。卓や馬を下り、帽子をとり、道ばたに直立し東を下げればいい(東日新聞)
原武史によると、天皇の乗る「お召列車」に対する敬礼が、明治三十八年の?直立不動のまま、視線を御車に注ぐ? から、明治四十三年の?御車が組〔迎える学校等〕の右翼約十歩に近づきたる時に礼の号令をかけ学生たちは体の上部を約三十度前方に屈して″細かく取り決められ、以後、大正、昭和と更に神聖儀式化されてゆきます。
昭和二年生まれの作家北杜夫は次のように述べています。「私は青南小学校の生徒であったから、代々木の練兵場に行かれる陛下(天皇)を青山通りに整列して迎えたものだ。教師こそそのように教えなかったが、陛下の顔を拝すると目がつぶれると一般に言われていた。私はそれを信じ、陛下の御馬車が近づいて礼!の号令がかけられると、それが過ぎゆくまで一度も顔をあげなかった」
天皇を直視すると失明する、という神話まがいの俗信は、明治の初めに広まっていました。 純真な少年、少女の洗脳は、容易です。若者の心に滲み通ってゆきます。
北は、「小学生時代の中国との戦争突入、そして太平洋戦争を通じて、私はずっと軍国少年であった」そして、軍国少年が中学二年生になり、日米間の戦端が開かれると、少年の胸は高鳴る。「それこそためこめた空が一時にぱっと晴れたかのように、積もっていた鬱積がおしのけられた感じがした。これがいつわらぬ当時の心境であった。緒戦の大戦果のときには文字通り雀躍した」
父、斎藤茂吉も「勝ちたりといふ放送に興奮し 眠られざりし吾にあらずきや」と戦争謳歌の歌を作ります。
 
敗戦直前の北の歌は「梓川の水があくまで澄明で清らかで、私はまだ本土決戦で死ぬつもりでいたから、ほとんど涙をこぼしそうになった。」と、

現身のわれの眺める川水は
    悲しきまでに透きとほりゐる

 北ばかりではないです。神国日本の正義と力を信じていた多くの軍国少年、少女たちはたちが居ました。問題は、純情な若者を、死地に、苦境に追いやった風潮です。これを私は明治維新以来の退化と見ているのです。

司馬さん本人も確かNHKのインタビューで、
「(昭和のことを)書いたら1年も持たずに気が狂って死ぬんじゃないか私には書けなかった」
「昭和という時代は、私にとって書いていて実に精神衛生に悪いものを持っています。それをいつか若い世代が昭和を解剖して欲しい。私の言葉はそのきっかけとして若い人に託したい」と言っています。

日本の敗戦は、なぜこうなってしまったのか、日本はどこで歴史を間違えてしまったのか、疑問に感じて、歴史を自分なりに遡っていたら、 明治維新に辿り着いてしまいました。