天皇に対する国民の教育

時代は、時とともに進化せず、退化に向かうと、恐竜の絶滅に教わるまでもないです。
たとえば、明治以降、天皇に対する敬礼も、形式を強めながら、退化に向かっています。
明治7年、天皇のお通りの時、平伏しなくてよい。卓や馬を下り、帽子をとり、道ばたに直立し東を下げればいい(東日新聞)
原武史によると、天皇の乗る「お召列車」に対する敬礼が、明治三十八年の「直立不動のまま、視線を御車に注ぐ」から、明治四十三年の「御車が組〔迎える学校等〕の右翼約十歩に近づきたる時に礼の号令をかけ学生たちは体の上部を約三十度前方に屈して」と細かく取り決められ、以後、大正、昭和と更に神聖儀式化されてゆきます。御真影とは天皇の肖像写真で、戦前の官公立には宮内省から下付され、校庭の一角に奉安殿を設けられます。毎日、登下校時にその前で最敬礼するように強いれられます。
昭和二年生まれの作家北杜夫は次のように述べています。「私は青南小学校の生徒であったから、代々木の練兵場に行かれる陛下(天皇)を青山通りに整列して迎えたものだ。教師こそそのように教えなかったが、陛下の顔を拝すると目がつぶれると一般に言われていた。私はそれを信じ、陛下の御馬車が近づいて礼!の号令がかけられると、それが過ぎゆくまで一度も顔をあげなかった」
天皇を直視すると失明する、という神話まがいの俗信は、明治の初めに広まっていました。 純真な少年、少女の洗脳は、容易です。若者の心に滲み通ってゆきます。
北は、「小学生時代の中国との戦争突入、そして太平洋戦争を通じて、私はずっと軍国少年であった」そして、軍国少年が中学二年生になり、日米間の戦端が開かれると、少年の胸は高鳴る。「それこそためこめた空が一時にぱっと晴れたかのように、積もっていた鬱積がおしのけられた感じがした。これがいつわらぬ当時の心境であった。緒戦の大戦果のときには文字通り雀躍した」
父、斎藤茂吉も「勝ちたりといふ放送に興奮し 眠られざりし吾にあらずきや」と戦争謳歌の歌を作ります。
 敗戦直前の北の歌は「梓川の水があくまで澄明で清らかで、私はまだ本土決戦で死ぬつもりでいたから、ほとんど涙をこぼしそうになった。」と、
現身のわれの眺める川水は
    悲しきまでに透きとほりゐる
 北ばかりではないです。神国日本の正義と力を信じていた多くの軍国少年、少女たちが居ました。問題は、純情な若者を、死地に、苦境に追いやった風潮です。
司馬さん本人も確かNHKのインタビューで、
「(昭和のことを)書いたら1年も持たずに気が狂って死ぬんじゃないか私には書けなかった」
「昭和という時代は、私にとって書いていて実に精神衛生に悪いものを持っています。それをいつか若い世代が昭和を解剖して欲しい。私の言葉はそのきっかけとして若い人に託したい」と言っています。

対米戦争に人る前の日中戦争時代、私たち一般大衆は戦争に反対どころかは戦争賛成で、軍部や政府を心から支持し、協力していたのだ。
戦争初期に軍や政府に反対した人はかなりいたようだ 。しかし、その人たちは共産党員やごく一部の学者 で、一般大衆とは無縁の人だ。もちろん情報が不十分のこともあるが、私たち大衆は、「またア力の連中が何かやったな。天皇に反対などとんでもないヤッらだ」 くらいの受け取り方だった。また戦争中期ごろ、個人的に戦争に疑念を抱いたり、反対の考えをもった人もかなりいたようだ。が、その人たちは大学生や知識人のごく一部にすぎず、彼らが意思を表明しなかったのは、憲兵や警察を恐れたことよりも、卑怯者と見られるのを恐れたことの方が強かったのではないか。私たち大衆は、戦争が開始された時はすでに戦争に賛成し、強い日本軍に心酔するほどに洗脳されていた。

この風潮はどこからきたのか、日本の敗戦は、なぜこうなってしまったのか、日本はどこで歴史を間違えてしまったのでしょうか。