維新政府とイギリス

明治41年7月に、グラバーは外国人としては異例の勲二奪旭日章をうけます。
伊藤博文、井上磐の連名になる叙勲申請書草案である「維新前に於けるテー・ビー・グラバー事跡概要」に次のように明確に述べられている。

「グラバが薩長二藩のために尽くしたる所は、王政復古の大事業に向って貢献したるものなり。彼が英公使パークスに対して薩長二藩のめに親善の関係を聞かんことを勧説したる大意に請う、熟々日本の形態を察するに徳川幕府の威権日に衰え、大君に委任せられたる政権は将に御門に復帰せんとするの傾向あり、此大勢に乗じて事を成すの権力は西南の大名にあり、今や仏国は徳川氏をたすけてその覇権の鞏固を謀らんとするも、英国はよろしく薩長二藩に結びてその事業を幇助すべし云々と。これグラバ従来の自信なり。彼素より営利の商人なれども、その自信の方針を貫徹せんとせば、勢い営利の範囲を脱して誠意と熱心とを以て事に当らざるを得ず。この形跡は前期の事実に徴して較然明著なりと請うし。」

 グラバーが仲裁をとり、英国公使ハリーバークスと島津公を会わせてます。徳川幕府との衝突に備えるため、船、大砲、小銃、火薬、弾薬、機械類のあらゆる物に関するグラバー商会が斡旋しています。グラバーはイギリス海軍大尉トーマス・ベリー・グラバーと母・メアリーの8人兄弟姉妹の五男として生まれ、1859年に上海のジャーディン・マセソン商会(東インド会社が前身で中国を拠点にした貿易会社で清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている)に入社し、長崎の開港後に21歳の若さで来日しマセソン商会長崎代理店として活動し二年後に「グラバー商会」を設立する。
明治 41(1908)年には伊藤博文井上馨が連名でも、グラバーの長年の功績に報いるため勲章授与の申請書を林董外務大臣に提出しました。その結果、同年勲二等旭日重光章がグラバーに授与されます。イギリスは日本の体制転覆を計画、反体制派として薩摩藩長州藩を選びます。そして薩長両藩を中心とする維新政府にイギリスが大きな影響力を持つことになります.