井上良馨の報告書

 当艦義、海路研究として朝鮮西海岸廻航中、本月20日同国京畿道サリー河砲台より暴発し、夫より戦争に及びし始末、別紙之通に御座候。則日誌、サリー河図面、及永宗城図面等相添、此段不取敢致御届候也。
明治八年九月廿九日   雲揚艦長 海軍少佐 井上良馨


 九月十二日、天気晴。午後四時長崎出張、夫より五島玉の浦に到り天気を見定め、朝鮮国全羅道所安島[海図クリチントンダロープ]を経て、海上泰静にして、同十九日午後四時三十二分、同国京畿道サリー河口「リエンチヨン」島の東端に外周檣壁を築きたる一城あり[記中第一砲台と記すは、則永宗城是なり]。之を北西に望み贅月尾島に沿い投錨す。

 同月二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島[海図カットル島]を北西に望み錨を投ず。而後、測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと、海兵四名、水夫拾人に小銃をもたらし、井上少佐、星山中機関士、立見少尉、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、午後一時四十分、端艇を乗出し江華島に向け進む。
 同島より海上一里程の前に一小島あり。此島南東の端に白壁の砲台あり[是を第二砲台と記す]。四時七分、此前面に到りしなれ共、兵備更になく、人家僅かに七八軒あるを見認たり。

 同時二十二分江華島の南端第三砲台の前に至れば、航路狭小にして岩礁等散布し、又東海岸の少し小高き平坦の地に、白壁の砲台あり。陣営の如きもの其中にあり[水軍防営ならんか]。夫より一段低く南の海岸に一の強台場あり。此所は勇敢の兵を以て之を防禦するときは、実に有到要害の地位と見認たり。

 此所へ上陸せんと思え共、日も未だ高く、依ていま少し奥に進み、帰路上陸に決し、同三十分、右営門及砲台の前を已に経過せんとするとき、端艇を目的とし、彼れ営門及砲台より、突然大小砲を乱射すること、陸続雨を注ぐが如し。
 暫く挙動を見合と雖も、進退終に此に究り。故に不得止我より亦其日用意の小銃を以て之に応じ、暫くは打合に及びしなれども、何分彼は多人数にして、且砲台より大小砲を乱射す。我は只小銃十四五挺のみなり。仍て之れと競撃すれ共益なし。故に一先帰艦の上、本艦を以て之に応ずるに不如と、同時五十七分発砲を止む。
 第九時、一同無事にして本艦に帰る。

 同月廿一日、天気晴。午前第四時、惣員起揃、蒸気罐に点火す。第八時檣上に御国旗を掲げ、而後分隊整列。
 抑、本日戦争を起す所由は、一同承知の通り、昨日我端舟出測の時、第三砲台より一応の尋問もなく乱りに発砲し、大に困却す。此儘捨置くときは、御国辱に相成、且軍艦の職務欠可きなり。因て、本日彼の砲台に向け、其罪を攻んとす。一同職務を奉じ、国威を落さゞるよう勉励し、且海陸共戦争中惣て粛清にして万事号令に従い、不都合なきよう致すべく旨、数ヶ条の軍法を申渡し、終て戦争用意を為し、第八時三十分抜錨、徐に進み、砲員其位置に整列す。
 第九時十八分、各砲に着発弾を装填し、第十時二十分第二砲台の前を過ぐ。
 尚進んで同四十二分、第三砲台の前に到る。直に台場に接近せんことを一同切歯すれども、何分遠浅且流潮烈しく、及暗礁散布し遂に近寄ること不能
 因て不得止凡拾六町の所に投錨[此所すら流潮烈しく、船を留むるのみにて、船の自由甚困難なり]。直に巨離試しの為め、四拾斤を発すれば、八分時を遅れて、彼よりも亦発砲す。

 夫より戦争互に交撃をなす。然れども、彼れが発する所の弾は、大約十一二拇のものにして、飛走すること六七町、偶一弾の遠く超越するあれども、艦を距る僅か一二町にして海中に落けれども、功を奏せざるのみならず、其装填放火の間た時を失すること数十分時、我百拾斤、四拾斤より発する弾丸、海岸砲台に命中し、胸墻を砲却すること二ヶ所現に見認めり。
 朝来互に遠く競合すとも、急埒不致。よって陸戦を掛んことを企望すと雖ども、何分遠浅にして深泥なり。故に端艇は尚更歩行すら不出来。爰を以て少人数にて上陸すとも、敢て利なきを計り、是又相止めり。
 此時最早昼食食事時なり。依て十二時四十分、戦を止めたり。午前十時四十二分より同時まで、戦争時間一時五十八分、其間我弾丸二十七発を費す。
 艦及人員傷疵なく十二時五十六分同所抜錨。午後一時十五分、第二砲台の下に投錨し、食事を整う。午後二時四十分、第二砲台に上陸。其所を焼払い、同六時五分同所抜錨、七時三十三分、再び鷹島の南に投錨す。

 同月廿二日、天気晴、微風北より吹く。午前五時総員起揃、同五十五分抜錨、第一の台場に向う。是則ち永宗城なり。

 六時十六分、戦争用意をなし、各砲に榴弾を装填し、七時十八分、第一砲台の前面凡八町の所に進み、直ちに四拾斤砲を発し、続て各砲を発射す。其内弐拾斤一弾城中に侵入す。然るに彼れ、粛清して一砲を応ぜず。唯城中兵士の群集するを見る。
 七時三十九分、城郭前面に投錨し、直に陸戦の用意をなし、小笠原中尉、星山中機関士、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、銃隊弐拾弐名を引率し、同時四十三分、端舟二艘を乗出し、已に着岸せんとするとき、彼の台場より頻りに発砲す。然れども少しも不屈、我亦発砲して進む。此所浅うして端舟陸に接近せず。故に依て直に海に飛入り、大喝一声城門に肉薄す。

 敵亦堅く守りて不屈。此時八分時程、尤劇戦なり。東門は角田少尉、神宮寺少尉補、厳しく令し、一声を発し、城壁を乗越す。
 此時我水夫両名手負たり。是より先き、八州少主計は北門より、小笠原中尉、星山中機関士は西門よ、進んで所々に放火し、頻りに発砲しつゝ、鯨声を発し、且つ進撃の喇叭を吹かせ、急激三面より攻撃するを以て、終に守を捨て逃走するもの数百人[此とき城中の人員目撃するに凡そ五百余人なり]。

 然るに、高田政久銃卒二三名壁外を旋りて彼が逃走する南門に向う。遂に四方より追撃するを以て、彼れ道を失い、壁を越え海浜に走り衣を脱して海中に入り、逃れんとするもあり。又、岩間に潜匿するもあり。此所にて敵死するもの弐拾五名、傷を蒙るもの其数を不知。逃走すること恰も、豚児の群り曠野を飢走する如く、或は躓き或は転倒し、其有様実に抱服の至りなり。之を鏖殺すること至て易しと雖、甚愍然、依て逃ぐるものは尽く見のがし、午前八時二十分退軍の喇叭を吹き、諸兵士を率いて東門の前に集合、人員を点検す。我兵、傷を蒙むるもの水夫弐名のみ[内一名、帰艦の上午後二時十分死去]。

 敵、死するもの三拾五名余、生捕頭分五名、其外合せて拾壱名、其他敵の手負、婦人等は尽く保護して無難の場所に逃す。
 此際東門の前岩上山峰頂上に御国旗を翻し、而して午飯を整う。此とき井上少佐、上陸して兵士を慰労し、暫く休息し、同九時七分、萬世橋等に斥候を配置し、追々本艦よりも人数を上陸させ、兵を分て城内及砲台に至り、武器を分捕る。大砲凡三十六門を始め、其外小銃、剱、鑓、旗、軍服、兵書、楽器其他武器類、惣て分捕り、城は尽く焼払い、彼の生捕拾壱名は夫卒として分取の諸品を端舟まで持ち運ばせ、午後九時五十九分、皆済に付、夫々に食物を給与し助命を申渡し放免す。

 同十時三十分、惣員引上げ本艦に帰る。
此夜諸「ランプ」を餝点し、酒宴を開き、本日勝利の祝、及戦死の者霊魂を慰むる為め、彼の分捕の楽器を列奏し、各愉快を尽し、其夜第二時に至て休憩す。

 同月廿三日、晴れ。午前第十時、昨日積残りの大砲を積込み、十一時同所発艦、午後四時十五分サリー河入り口小島前に投錨す。
 同月廿四日、曇、午前呑水を積み、第十時三十分、同所抜錨。天気見定めの為、午後五時七分「ショーラム」湾へ投錨す。
 同月廿五日、晴、午前第三時五十分、同所抜錨、天気宜しく海上平穏にして、同廿八日、午前第十時四十九分、長崎に帰艦す。