米と日本人

下記の史料は1971年から20年かけては明治時代に育った水俣地方の人々から聞き取りしたもので、大勢の人々たちの協力よって完成したものです。

水俣というところは、大正時代に会所が没産して水俣手永の資料も全部散逸した。これほどきれいに文献資料がないところは珍しかろ。明治以降さっぱりたい。ほんの僅か残っとるのをつなぎ合わせてみるしかないもんな。
1633年の一人当たり田畑所有高を穫れ高でみると、細川藩平均の約半分で極端に低かった。穫れ高は、1633年から209年後の1842年に約700石減少している。人口は、230年後の1863年に約二.六倍に、55年後の1888年に約五倍になった。田、畑の面積は、1842年から81年後の1923年に田は二・三倍、畑は一・八倍に増えた。こりゃ大変という感じじゃな。人がどんどん増えるのに狭い田畑は限りありで、細川さん時代は、ちょっと飢饉があればうんと餓死したっじゃろ。明治時代になって少しは生産性も上がったろうけど、人口増にはとても追いつかんもん。水俣の百姓が生きていけたのはカライモのおかげたい。カライモは一八世紀に水俣に入ってきた。水俣の百姓はカライモ百姓やったったい。(淵上二義)
惣庄屋の下に七村に庄屋が居ってな。深川村の庄屋どんは、お城どんていいよったっじゃっで。その人が、米をいくら出せ いくら出せていうて、米は一粒も残らんように取り上げてしまいよったったい。(松下吾平次)

百姓が食う米はない。それで、水俣の米はほとんど薩摩の伊佐郡から来たんです。塩の俵々替えでな。細川さん時代は、酒を一升持って遊びに行って飲ませて、「自分は作りきらんから、田圃もろうてくれんか」
で人にくれよったそうです。百姓は食うどころか、御上納おさめるだけの米ができん。酒一升つけてでも、人を騙して押しっけた方が得たいなぁ。そうやって百姓から取り上げた水俣中の米を、水俣川尻の米蔵に集めた。米蔵の大壁には、中に大きな竹をそのまま入れて、砂を詰めて、板を厳重に打ち付けてな。そこから船に積んで八代に持って行った。古賀村が一艘、浜村から一艘というふうでですな。そのときは、そりゃあ賑わいよったそうです。優秀な力の強い人ぽっかり集まって、一千俵小積み、てっぺんは一俵でとまるようにして、富士山のように小積みよったそうですでな。そのてっぺんに一人乗っとって、片手で鉄砲刺しといって俵を刺して持ち上げたり、いんな芸をしよったげな(窪田幾大)

 熊本の高瀬という所に細川さんのお蔵がありましたっじゃろ、昔は高瀬は県境ていいよりましたもん。麦抱き唄に、
鴇いても摘いてもこの麦やむけぬ
高瀬お蔵の底詰まり
で歌いよりましたでな。(中村藤之吉)

御一新になってから、少しょうなったったい。侍が居らんようになったでな。細川さんでなく、天皇陛下にやればいいようになったでな。百姓も少しは米を食っていい、てなったったいなぁ。(松下吾平次)

私のじいさんが語りよりましたが、いま市の採石場になっとる所が、兎山というて浜村の株場1草切り場だったそうです。明治になって政府が、一人一人に割ってくれたそうですたい。それでみんな開墾してカライモを一年か二年か作りましたところが、税金をかけたで。ただで作ってよかっじゃろうで思っとったところに、税金が来たもんだから、みんなびっくりして戻してしまったそうです。政府にまた押し戻したもんやっで、政府が松を植えてしまったてな。政府の税金はだんだん高うなってな。百姓は、税金分の作物を作りださん。それで、酒一升でも二升でもつけて、「田園もろうてくれろ」 て頼んで回りよったそうです。「こりゃ税金分は働きださん。汗水垂らして働くよりもう遊んで打ち置け」
 ていいよったことも・そりゃあったんです。(中村藤之吉)

明治になって飢え死にはなかったな。でも草の葉を取って食いよった。クサギナ〈臭木葉。くまつづら科の落葉潅木。薫を食用とする)なんかを精出して取って噛みよったんなぁ。クサギナは、川に一晩晒せば苦味がなくなるもんな。
味写あえて食えば旨かよ。ミノバ(ゴンガイ。みつばうつぎ科の落葉小栗。葉芸用とする)は、もう芽立たんぐらい取って噛みよったぞ。ミノバて赤い実の生っとたい。スミビ(スベリヒユ。すべりひゆ科の一年生草本)なんかもな。草は、芽立てば何で去うでよかったい。私が娘ン子の頃、ホッコク米〈外米)が流行ってきた。は、この盆前六月二二日にクサギナ取りに行って、石をうちかぶって死なったが。
「冷飯でよかで食わせてくれんか。おら、ホッコク米は食いたくなか。臭かで」(下川ソヤ)